年末、黄遵憲の故居を梅県を訪れた。梅県は広東省東北部位置する客家の都市。黄遵憲はいわずと知れた、清末の官僚である。出使日本国大臣の候補にあげられながら日清戦争で赴任しなかったこともあるが、初代公使何如璋の参賛官として赴任した際には有名な「朝鮮策略」を朝鮮使節わたし、そして日本滞在期間中の経験をいかしたかたちで『日本国志』を公刊したこと、またそれが戊戌変法に影響をあたえたことなどで知られている。わざわざ、黄遵憲の故居まで行ったのは、そこに黄の蔵書があるからである。無論、自由に閲覧できるわけではないが、書物を展示してあることは確かであった。実は2000年8月に北京大学主催の黄遵憲シンポがあり、「黄学」の興隆が高らかにうたわれたとき、筆者は天津での学会に引き続き参加しなければならなかっため、梅県へのエクスカーションに参加できなかった。あとから、参加者から蔵書のことを聞き、二年来訪問したいと思い続けていた。黄遵憲については、外交史においても重要である。特に注目に値すると考えているのは、その『日本国志』に不平等条約改正への志向性が読み取れるからである。これについてはまだ研究をおこなっていないが、さきに同故居を訪れて蔵書を見た方々がいずれも『日本国志』の底本が頼山陽であったことなどを報告されており、「公使館員」であった、つまり「外交」の場にいた黄が外交方面について書いたものについてはほとんど注目されてこなかったのである。そして、これは梅県訪問の前に訪れた台湾で閲覧していた総理衙門档案で、実はこの『日本国志』もまた、《出使章程》などで在外公使館赴任者に課せられた認知の事情に関する報告書の一種であり、1887年に李鴻章から総理衙門に提出されたものであることがわかった。
台北から香港経由で梅県の空港に到着。台湾人が数多い。飛行機の中でも、台湾語でない言葉、つまり客家語を話す人が多かったが、彼らは「台胞証」パスポートコントロールでおもむろに手に取る。みな「探親」か「投資」のために来ているのだろう。「客家ロード」がここにもある。日本人は珍しいらしい。空港を出るときの荷物チェックでことごとく調べられ、特に雑誌などを念入りに見られた。もちろん職員がたくさん覗き込んでいる。昔の中国に来たようである。こんなこと、いまの北京や上海ではありえない。空港から街中までは30分程度。ホテルは韓江に面したところにある。正面に旧城が見える。客家の集落は、通常「円状」を呈し、各家も扇型の曲線を母屋の背後に有するかたちが多いが、この梅州は韓河の湾曲をそのまま扇形に利用しているようである。黄遵憲の故居は郊外にある。「人境蘆」という名が冠せられた故居はいまも梅州を代表する観光地である。世界遺産の客家集落もあるが、ここからは数時間車で行く必要がある。故居は展示はややシャビーなのだが建物は四合院なのだが洋館風を取り入れたもので洒落ている。このあたりの家は、バルコニーや門などに植木鉢を置いて綺麗に飾り立てるなど、およそ北方の庶民街では見られない情景がある。展示から特に学んだことは、これまで「文学」「日本研究」の中にあった黄遵憲の詩の中に、実は植民地となる台湾に関するものなど多くの興味深いものがあるということである。また、《日本国志》については、出版年などが明確に記されず、この点が依然空白であることなどである。肝心の蔵書は二階にあった。これで全部ではないだろうが、日本関係、外交関係など幅広い蔵書があり、前述の不平等条約云々についても関連性を感じさせる書物が数点あった。
故居を出ると古い町並みが広がっている。池と飾った玄関と植木。南方の光景である。小さな池の向こうに「廟」がみえる。「黄氏祖堂」。黄遵憲を輩出した黄氏の「廟」である。有名な清代の官僚である黄鴻藻もまた黄の一族である。興味深いのは、いまでも一族の誰がどこの大学に入ったかが張り出されていること、そして寄付金リストに世界各地の黄氏の名が記されていることであろう。
日本では客家料理を食べられる店があまり多くない(立教大学横の東江楼がかつては有名だった)が、今回の旅行で梅県あたりの料理が台湾西北部の客家地区の酸味の強い料理とは系統が異なるのではないかとはじめて感じられた。発行した干し魚を利用した豆腐料理、独特な米酒など興味深い味が多かった。中国最美味といわれる潮州を近くにもっているせいか、盛り付けなども洗練されている印象を(そのときは)受けた(このあと潮州にいき、実際に食べてみるとぜんぜんレベルが違ったが)。街では客家語がメインというわけではないようであった。南方国語がメインで、家庭で老人たちが客家を使用する状況であるらしい。
梅県では本当に昔の中国を堪能できた気がした。ホテルの部屋でパソコンの充電が送電ランプがついているのにできないという初めての体験をした。電気が弱いのか。・・・
梅県からは鉄道で潮州に向かった。GMSRである。なんだかお分かりであろうか。広州→梅州→汕頭の鉄道という意味なのである。駅で3時間ほどこのローカル線が来るのを待った。小さな屋台に陣取り、工夫茶をすすりながら。電車はきわめて快適だった。車窓からはいくつもの客家の住宅が見えた。段々畑。ほとんど区画整理がされていない。
それにしても、故居の蔵書といい、民国期から続いているような植木の並ぶ家々といい、この地域には文革はなかったのだろうか。次に来るときには、梅県に多い葉氏一族(1990年代まで広東省の支配者)の墓や故居を歩いてみたい。
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