ソウルの金浦空港でいまこのレポートを書いている。
昨日、北京からソウルに着いたのだが、飛行機の中の雰囲気、特に到着したときに全く周囲に譲らない、隣の席のひとが突然こちらのリモコンをいじりはじめ、自分が自分のところでうまく操作できないこと問題を横の席のリモコンで解決しようとする(できるはずはない!)、到着してみれば駐機場に20分ははいれず、降りてみたらパスポートコントロールの役人が異様に悠長に仕事をする…こちらのパスポートに印をおしながらそれをすぐには返さず、机をゆっくり整理して、それで渡すといった様子。これでは中国である。そして、電話をしようと思ったら、ハブ空港を目指す仁川空港だというのに、クレジットカードでできる電話が無い。テレフォンカードを買えという。しかしそれにはきちんとした英語の説明が無いようだ。どうも、東アジアの国々は立派なものをつくるものの、どうしても自分の国が一番という感じになるのと、ドメスティックな利権構造、特権構造などから離れられないらしい。
ソウルは雪であった。出迎えてくれた学生が、「今年は異常気象」だと言う。ソウルの様子を聞いていると、いま選挙で盛り上がっていることは承知していたが、どうもそれどころではない(あるいはだからこそ)状況になっているようであった。在韓アメリカ軍の戦車が「過失」で中学生の少女二人をひき殺したのである。これが大反米運動に結びつき、一昨日(7日)などはソウルの中心部がキャンドル行進でうまったというのである。この反米はどこからくるのか。無論、ナショナリズムをあおる盧候補のキャンペーンという要素もあるだろうが、それだけではすまない。9日のHerald Tribuneも一面でこの記事を大写真入りで掲載、Serious Breach in U.S.-South Korea Tiesという見出しをつけた。韓国における根深い反米は、一方でアメリカの日本に対する姿勢との差別問題としても取り上げられる。沖縄の米軍が少女を暴行した際の対応と今回の対応が違う、アメリカは「過失」の一点張りで一切謝罪しないといったものである。「謝らない」「日本と待遇が違う」。さまざまなフラストレーションが、特に若い世代を中心におきている。
しかしイラクの査察で忙しいアメリカ側がこれをどれくらい受け入れるか。先月、北大の政治研究会で古矢旬先生の『アメリカニズム-普遍国家のナショナリズム-』(東大出版会、2002年)の書評会があり、不肖筆者も報告者の一人であった。そのやり取りの中で「反米」のことが話題になり、小生から「なぜアメリカは各地の反米運動をとりいれたり、そこからフィードバックさせながら、あらたなアメリカニズムを生み出すようなダイナミズムをもたないのか」と質問したところ、「そもそもアメリカはそうした反米運動があるということを知らないのではないか」という回答があり、衝撃をうけた。今回のソウルにおける事件、またしてもアメリカ本土にはフィードバックされないのであろうか。
今回の事件は、選挙と言う観点から見れば、地方分権的な志向をもつ李候補よりも、ナショナリズム的な観点をもつ盧候補に有利なようである。だが、アメリカが選挙キャンペーンとだけ認識してしまうと、あるいはたかが二人だけで、などと認識してしまうと、大変なことになろう。
昨日は12月8日であった。パールハーバーは(アメリカにとっては7日だが)、アメリカ史における数少ない被侵略の「記憶」として今も繰り返しアメリカ国民刷り込まれる「教材」であろう。だが、一方で、韓国における今回の運動同様、各地で反米的な記憶がアメリカへの憧憬とともに刷り込まれていくとしたら、東アジアや太平洋における秩序形成は、必ずしも簡単なものではないということになる。東アジアは、アメリカという媒介を通じて様々な紛争がおき、そのアメリカを通じて調整もおこなってきた。アメリカなくして問題はなかったし、アメリカ無くして問題の解決もなかった。これは言い過ぎかもしれないが、このどちらか一面だけが強調されてはいけないであろう。
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