川島 真
2003年8月17日から二週間ほど台湾を訪れ、久しぶりに時間をかけて档案館での档案閲覧、収集をおこなった。8月末から9月初旬にかけて四川省で両岸の档案館関係者の会議が開かれるということもあり、8月末に関係者は決して多くなかったが、それでも様々な新動向を知ることができた。以下、各档案館の状況について簡単に記していきたい。
(1)档案管理局
今回、ここには行かなかったが、各方面から話を耳にした。特に同局の諮問委員会のメンバー数名と個別に会ったが、それぞれが問題を指摘していた。中には、中華民国の文書システムにおける「公文」と「档案」の区別がついていないのではないという指摘もあった。つまり市民への情報公開は「公文」の論理でなされ、歴史研究は「档案」の論理でなされるべきなのに、それを一緒にしているという批判である。他方、実際のところ、同局の活動自体もやや滞りがちのように感じられる。一部の委員は、「委員会はしばらく開かれていない。開くと言ったって、議論が多すぎて結論などでないのだから」と慨嘆。まとめ切れないのであろう。だが、ある委員は「おとしどころ」を模索し始めていた。食事をしながら、「お前は档案管理局の本来あるべき姿についてどういうイメージを持っている?」と聞かれたとき、筆者が「基本的に情報センター。そもそも所蔵スペースが限定されている上に、档案を全部集めるに相応しいマン・パワーも無い。あくまでも中央政府の各部局における档案の管理、廃棄状況について調査し、それを公開(こうした档案の公開に対するサービスについては档案管理局の管轄外)、また档案を所蔵する国史館などの各档案館と連携し、分散している档案所蔵状況をまとめて情報提供する役割を果たす。だが、一部の利用度の高い档案については、そのデジタル化などを推進したりすることが考えられる。档案所蔵については限界があると考えたほうがいいのではないか」と述べると、その委員は「私の考えていることとほとんど同じだ」としていた。
他方、これは全く別の世界の話だが、台湾には档案管理に携わる人々、研究者間の組織があり、この方面はどちらかと謂えば中央研究院の社会科学研究所が主管しているように思える。先に記した四川でのシンポにあるような大陸方面との交流や、官僚の研修の斡旋などをしている。彼らの活動は、各档案館のそれとは必ずしも同一でなく、また档案管理局のそれと同じではない。台湾の档案行政はアクターが既に複数化している。だが、制度のスクラップ&ビルドの過程でできた空間に酸素を注入し、そうしながら社会が活性化していくという漢族社会の傾向を考えれば、こうした現象も十分に理解できる。
(2)国史館
ここでは外交部档案を片端から見てきた。また、棚にならんでいる档案の目録ファイルの一覧を作成するという作業をおこなった(これは近々ホームページにアップする)。閲覧したファイルのうち、目玉は「自由中国」関係のものである。これは雑誌の『自由中国』ではない。ラジオのそれである。Voice of Chineという国民党系の中国広播公司が展開していた全世界向け放送のスローガンが「自由中国」であり、この放送の戦略、概要が多く残されているのだ。それは、当然ながら「共産中国」の不当性を訴える宣伝であった。他方、Voice of Taiwanという「台湾独立派」の地下放送もあったが、それの傍受記録や調査記録なども大量に残されているのだ。ちょうど「ラジオ」についてのプロジェクトに参加していることもあり、実に興味深かったので、久しぶりに大量に複写して来た。こうした「宣伝」には、当時の政権のありかた、方向性が象徴的に示される面があり、政治史研究、外交史研究の上でも重要な分野だと考えている(外交部档案については档案資訊処のガードが比較的下がっているようである。筆者は現在、1950-60年代の日華関係についても少しずつ勉強しようと思っているが、その際には外交部に残された档案の閲覧が必須である)。
この外交部档案は現物で閲覧してきた。だが、蒋介石関連の档案をはじめ、ここでは急速にデジタル化が進んでいる。
このほか、台湾史関連の話しとして重要と思われることに、戦前期から49年の档案の問題がある。実は、国史館が台湾省文献委員会を吸収し、文献館とした後、所蔵档案の調整がおこなわれた。このとき、一度、台湾に関する1949年以降のものを国史館が所蔵し、それは文献館が所蔵するという方向性が決められたという。実際、筆者もこれまでの史料紹介文などで記してきたように、国史館の所蔵档案の中には戦前期の台湾、45年から49年の台湾関係の档案を含むものが少なからずあったのである。これは、戦後中華民国が台湾に来てから日本時代の文書を接収し、それが長らく現用档案として地方政府などで利用され、最近になって不要となって国史館に移管されたものであったり、中華民国政府が大陸にあった45年から49年にかけての台湾におかれた諸行政機関の档案であったりする。こうした档案類を中興新村に移管しようとしたのである。しかし、今回の訪問で、その方針が撤回されたことを知った。だが、全面的な撤回ではなく、一部は移管、一部は国史館意図留めおくことになったという。その分類方法についても聞くには聞いたのだが、いまひとつよくわからなかった。いずれにしても、今後、台湾史方面でも、档案の分布図が必要となってくることになろう。
なお、台湾史方面では、国史館およびその下にある文献館の管理する総督府文書をめぐるさまざまな話しについては筆者も仄聞するところであるが、この点については国史館側の話しをきちんと聞いていないので記すことはできない。しかし、昨今、日本方面のある機関を通じて国史館に協力要請をしたところ、極めて好意的な返答があった。これをどのように見るべきかはまだ定見が無いが、アクセスし続けることが大切なように思う。
(3)党史館
今回は訪問しなかった。だが、利用者からの不満は数多く耳にした。「行ってみたら、今日は担当者が休みだから档案の申請はできない」などと謂われ、「ここは大陸か!こっちはわざわざ海外から来ているのだ」と怒り心頭に達している向きもあったようである。心情的にはよく理解できる。しかし、よく考えなければならない。党史館は国民党が自らのアーカイブを公開するために置いているものである。もちろん、民進党にも、日本の自民党にもそうした機関は無い。また、こちらが国民党員でない以上、国民党がこちらにサービスする義務はないし、こちらに権利も無い。公共機関であれば色々言えるが、党史館は最終的には「私的」機関である。党国不分離の時代は、国民党党史委員会が実質的に「国史編纂」の一翼を担った。現在、多く利用されている『中華民国重要史料初編』なども党史委員会メンバーを中心に製作されたものだ。このころなら、まだ文句が言えたかもしれないが、党国分離を李登輝政権が進め、財産の所在を明確にし、党史会のあった「陽明書屋」や宋美齢の愛した花園のあった士林官邸などが相次いで、政府の内政部、ついで台北市などに移管されたのである(実は、国民党の戦後の档案の大部分はまだ陽明書屋に残されている。雑誌や新聞などは多くが国史館に移管された。新しい国民党本部の档案庫、書庫は小さすぎたのである)。こうした大きな流れの中で党史委員会は改組(実質解体)され、文化担当部局の下に党史館が置かれるにとどまり、人員も大幅に削減、現在は僅かに4名しかいない。これには党自身の財産、予算の大幅減少も響いている(国民党のリストラの過程、組織変更などもやがて研究テーマになるだろう)。こうした中にあって、国民党は依然として档案の公開、閲覧をおこなっている。閲覧室担当の女性がお休みをとった場合、また突然病気になった場合、対応するすべは無い。館長、副館長が閲覧業務をおこなうならいざ知らず、そうしたことは不可能である。このような状況の下、もし「きちんとした対応ができないのならやめてしまえ」という意見を多くの学者が言い出したら、国民党はこの閲覧室を閉鎖する可能性がある、というところまでここは追い込まれてしまっていると考えて良いだろう。やるからにはしっかりやって欲しいし、利用者にも便宜を図って欲しい。しかし、いまはこの档案館の存続のために声を大にして、その存在意義と重要性を訴え、それを守っていくべきではないのだろうか。そして「この档案館は私的機関にありながら、組織の歴史的な存在意義を踏まえ、档案を公開し、一般の利用者に供するなど、世界の政党アーカイヴとして先駆的な存在である」と謂うべきなのではなかろうか。確かに利用に際して紹介状を要するようになるなど、以前よりも利用条件が悪化した面があるが、それは館側の体制の悪化によるべきものであろう。筆者は、研究者自身が館の閉鎖を導くようなことだけは避けねばならないと考えている。
(4)中央研究院近代史研究所
研究者というより档案管理畑を歩んできた荘樹華編審が館長に就任し、予算面などで厳しいところもあるのだろうが、実に活気に満ちてきているように感じられる。ここでは「数位化(デジタル化)」が続々と進行中で、外交档案の多くも現物ではなく、画像で見るという体制になっている。これは歓迎すべきことだが、複写が一頁3元と、普通の三倍となっている点がやや難。このほかは、中国外交史のホームページ立ち上げの件がある。ここでは、外交档案の所蔵状況だけでなく、写真資料なども大量に公開していこうとしている。まだ公開されていないが、筆者も日本側委員となって情報提供していくことになっている。
このほか、今回は外交部档案資訊処所蔵の档案目録を複写できた。これは大収穫であり、これによって現在公開されている外交档案の見取り図を描くことができるようになった。
(了)