■国家档案法と国家档案局(2001年10月29日/川島 真)
台湾では2000年に国家档案法が通過した。これに基づいて国家档案局が2001年12月に台北にオープンする(人事面では既に職員がいることになっているが、国史館などに配分されている)。しかし、この国家档案局のスペースは極めて小さく、档案を整理・保存・公開するに堪えられるような場ではなさそうである。国家による档案行政全体の抜本的改革を目指した筈の国家档案法通過、国家档案局の設置は実際には如何なる意味をもつのだろうか。
現在、台湾では総統府や行政院に属する各部局がそれぞれ档案を管理し、特に規定もないまま経済部が档案を中央研究院近代史研究所に、国防部が国防部史政局に档案を移管して一般に(一定の制限の下に)公開している。また、その他の部局はそれぞれの判断で不用になった档案を国史館に移管している。他方、例えば外交部のように1928年までの档案を中央研究院近代史研究所、それ以降のものを国史館、ある程度機密性の高いものは外交部档案資訊処にて公開に付しているところもある(但し、中央研究院に移管された档案の所有権は依然として外交部に帰属している)。
こうした状態にメスをいれようとしたのが国家档案法であった。その結果、確かに档案公開に関する三十年原則が確認され、また档案の処分に際しては国家档案局の許可が求めっれるようになった。こうした意味では、「それぞれの判断で」処分するという傾向は是正されるようになった。
しかし、一時噂されたようにこの国家档案局が一元的に档案行政を担うというわけではない。実は、この国家档案局は行政院の下にある研究考核委員会のそのまた下に位置付けられた機関なのである。これを「3等機関」という。行政院が一等、研究考核委員会が二等だからである。因みに国史館や中央研究院は総統府直属であり二等機関、外交部や経済部なども行政院直属で二等機関である。こうした意味で国家档案局の実質的な権限はおのずから限られたものになっていく。
それでは、12月にオープンする国家档案局の役割はどこにあるのか。先に挙げた档案処分に対するチェック以外に、各機関の目録類を完備したり、ネット化したり、あるいは228事件などの、特に民間の関心が高い案件に関する档案(の複写物)を収集したりといったことになっていくものと思われる。
日本の国立公文書館法もそうであるが、東アジアの文書行政はどうもイギリスやアメリカのようにすっきりいかない面があるようである。しかし、そうであっても台湾がアジアの文書行政先進国であることに変わりはない。
■各档案館の「台湾化」と国史館所蔵档案に新たな「目玉」(2001年10月29日/川島 真)
台湾では「台湾化」が急速に定着しつつある、あるいはもはや誰も話題にさえしないぐらい当然のこととなっている。こうした状況は、学術機関や档案館にもある種の影響を及ぼしていく。これまで「中国」「中華民国」符号を掲げていた機関は、「中国」「中華民国」符号の有効期限を気にしながら、「台湾」符号への切り換えをはかっている。中央研究院とて、「中国」符号を掲げていたはずの各研究所で「台湾」符号への架け替えがおこっている。(無論、一方で確信犯的に「中国」「中華民国」符号を掲げる向きもある。「中国」「中華民国」は台湾にとって最も身近な外国として、あるいは歴史の一過程としての有効性を持ちつづけるからである。)
档案館もこうした状況に敏感に対応している。中央研究院近代史研究所档案館は、「台湾経済」という戦後台湾にとって決して無視されることのない「メインストリーム」を主軸に据えた档案収集を始めている(個人档案を含む)。このため清総理衙門档案・外務部档案・民国外交部档案などは影がうすくなっている。また、中国国民党党史委員会も30年原則を適用し、1970年代に至る会議記録などを公開している。
他方、台湾における「中華民国」関連の最大の档案保存・整理・公開機関である国史館もその例に漏れない。国史館は戦後の「中華民国」としての台湾の行政文書を有するという「強み」をもっているが、これに加えて日本統治時代の「台北州」(既に移管済み)、「台南州」(今後移管)されるというのである(張炎憲・国史館館長へのインタビュー/2001年9月28日)。これに加えて、先般国民党党史委員会が市街地に移転するにともなって、戦後台湾の地方新聞なども国史館に移管され、利用されるようになっている。台湾総督府文書を有する台湾省文献委員会が「廃省」にともなって国史館の分館として位置付けられるにおよび、その本館である国史館にも日本統治時代の地方行政文書が移管されるということは、台湾研究者の巡礼のありかたに大きな変化を及ぼすこととなろう。
■民進党政権と档案行政-国家档案局の位置づけ-(2002年10月27日)
台湾の档案行政は東アジアで最も進んでいるという定評がある。これについては間違いないであろう。だが、国民党から民進党への政権交代劇の中で、この档案行政がどのように変化したのかということについては、議論が必要であるように思う。すなわち、一部に、民進党政権になってから、档案閲覧なども大幅に自由化したはずであり、国民党が隠していた档案が民進党政権の誕生によって公開されていたのではないかという見方がある。結論を先取りしていえば、これは正しい認識とは言いがたい。档案公開は国民党政権下で急速に進んでいた。決して民進党政権になってから公開が進んだということは無い。しかし、これは国民党政権下から立法院で議論していたことであるが、国家档案法の制定、および国家档案局の設立という「功績」が民進党政権にはある。これは歴史档案保存運動と情報公開運動が結びつくかたちで成立したもので、この2002年からスタートした。この国家档案法は、決して強力なものではないが、各国家機関が档案を廃棄する際には、同局の許可を要するなど、日本の国立公文書館法よりは効力が大きい。だが、国家档案局は、行政院研考委員会の下部機関、すなわち所謂「三等機関」であるため、各機関に対して強く出ることができないとされる。また、台北市内の同局のオフィスは決して档案を保存できるスペースなどなく、要するに目録を作成したり、ある小規模のトピック別の档案収集をおこなったりするだけの機関だと目されている。この民進党の「功績」、それほど実質的な成果をあげているようには思えない。他方、档案局だけでなく、一部档案館の档案管理、サービスそれじたいが比較的窮屈になりはじめている面がある。これは日本との共同研究にも影響を与えているという。いま現在、台湾は全体的に「市民戦争」状態にあるといえ、選挙対策専門であった陳政権のブレーンがあらゆる局面に二分法的「闘争」を持ち込んだため、理性的に発言できる「公共圏」が崩れ、自由にものがいえない「踏み絵」社会が復活していると指摘する向きもある。だが、暗いニュースばかりではない。たとえば国史館における光復後の蒋介石档案および蒋経国档案の公開といったポジティブな面がある。こうした中で、10月下旬、興味深い話が飛び込んできた。それは、行政院の研考会の主任委員である林嘉誠氏が、全行政機関に対して档案を「国家档案法に基づいて」国家档案局に移管するように求めた、あるいは求めようとしているというニュースである。もしこれが実現すれば、総統府や国防部など、これまで国史館などには移管されていなかった档案が閲覧できるようになる。台湾における档案行政は、現実の政治と密接に絡みながら進みながらも、それでも少しずつ成果をあげてきている。今後も、見守りたい。