川島 真
(北海道大学大学院法学研究科、shin@juris.hokudai.ac.jp)
◇本稿のねらい
歴史研究をおこなううえで、档案=文書は第1級の史料であり、それを如何に利用していくかということは基礎的なことであるし、この点は台湾史研究も共有するところであろう。しかし、台湾における档案史料を、台湾史との関連で眺めて見ると、そこには難しい問題、微妙な問題が数多く横たわっているように思える。これは台湾史研究の方法論的課題でもあり、また台湾史それじたいの特質からくるものでもあろう。本稿では、昨今の台湾における档案行政や档案館の状況、あるいは中国の状況などを折りこみながら、上記のような問題関心に依拠しながら「台湾史と档案」といった点について述べていきたい。
◇ 何が台湾史の「史料」なのか
「台湾史」が台湾島史、あるいは現在の台澎金馬の歴史であるとすれば、その歴史に関わるものはすべて台湾史の史料ということになろう。また、人の面から見れば、そこに居住するなど、何かしらのかかわりをもった人々の営為、あるいは「台湾人」とされる人々の台湾以外の土地での営為もまた台湾史の一部分ということになろうか。
こうした土地に刻まれた過去の形跡、あるいは人々の営為の形跡に関するすべての遺物・継承物が歴史研究の基盤となる史料であるとすれば、その範囲は実に広く、あらゆる発掘物、墓石、口承伝承、そして文字記録などがみな史料として位置づけられることになる。昨今の歴史研究は、「見たもの」「音」「匂い」など、五感に関わるものすべてを対象にしつつあり、「史料」と認定されるものの範囲も従前よりずっと広がっている。こうして考えると台湾史に関する史料の範囲も膨大なものであることがわかる。
◇档案館
檔案 | 行き先 |
国家機関の檔案類 | 国史館 |
上記のうち、経済部および外交檔案の一部 | 中央研究院近代史研究所 |
一部現用檔案 | 各部院の檔案処など |
清代の文書(総理衙門・外務部、一部省庁除く) | 故宮博物院図書館 |
日本統治期文書(総督府関連) | 国史館分館(旧文献委員会) |
地方政府檔案 | 各県史館、国史館 |
日本統治期文書(地方政府関連) | 各県史館、国史館 |
国民党関連 | 国民党党史館 |
本稿で、こうした「史料」全体を如何に保存すべきかということを論じるには、あまりにも筆者の能力的限界がありすぎるので、ここでは档案館(=文書館)という場から問題を考えて見たい。
では、档案館は、上記のような史料状況の中で、どのような史料を「保存」すべきなのか。まず考えるべきは、その档案館を生み出している制度的な、あるいは法的な背景である。すなわち、その档案館が、公的機関の档案それじたいだけを対象とするようなアーカイブなのか、それともそうした公的文書だけではない様々な歴史的な「史料」を収集し、保存し、公開するための機関なのかということである。たとえば、日本で考えれば外務省外交史料館は、基本的に外務省から送られてくる文書、外務省記録を扱い、厚生省系の昭和館は生活・風俗に関わる史料を「収集し」、保存し、公開している(アジア歴史資料センターは収集・保存機能は担わず、公開部分の便宜をはかるためのサービスを展開している)。
他方、「保存」という行為は、実際的には、人為的な取捨選択が介在して成立するものである。まして、それを档案館が公的な資金でおこなうとすれば、そこには制度や、予算的制約がくわわり、何をどこまで収集し保存するのかということが問題となる。たとえばシンガポールのナショナル・アーカイブは「物売りの声」などの音声記録を保存している。これは人々の生活に密着したものであるからだろう。
台湾の档案館は、多くの場合、「档案」それじたいを保存対象にしているようにみえる。無論、地方の県史館や歴史博物館などとでは異なるのだが、やはり档案を保存・整理・公開している。いまでは国家档案法も定められ、档案の流れもおよそ明確になった。
台湾では、中央政府に国史館があり、国史編纂を目的として档案の保存・整理・公開をおこない、このほかに経済部関連の档案と総理衙門から民国前期の外交部档案を中央研究院近代史研究所档案館が有している。あとはおよそ上図のようであるが、「台湾史」のための档案館ということになれば、これは全てがそうだということになるのだろうか。
◇ 清、中華民国と台湾-「档案」と台湾史-
時期 | 中央政府 | 出先機関 | 台湾自身 |
〜19世紀末 |
宮中檔案など(台北・故宮博物院) 軍機処檔案など(北京・第一歴史檔案館) |
淡新檔案? | |
20世紀前半 | 植民地行政文書(外務省外交史料館等) |
総督府文書 各地方自治体 |
|
20世紀後半 |
国民政府檔案など(国史館) 国民党檔案(党史館) |
台湾省政府檔案 | 各地方政府檔案 |
ここではもう1歩進めて「台湾史」関連の档案について考えて見たい。
台湾では、特に90年代から急速に「中華民国」関連の档案公開が進んだ。特に中華民国が大陸にあった時代の档案の公開が進んだ。これは「台湾化」と同時並行的に進んだことであり、具体的には蒋介石父子をめぐるタブーが減少したために、かつての機密が機密でなくなったということが引き金になっている。
他方、中国でも改革開放の中で、かつてでは考えられないほどの档案が、歴史档案館や档案館で公開されはじめている。
では、何が台湾史にとっての史料となる档案なのだろうか。中華民国政府が大陸から台湾に逃れた際に、清代から民国期の膨大な档案を持参したことは周知のとおりであり、それが現在の世界の中国研究に寄与するところ大であることについても言をまたないであろう。そして、これらの史料の中に「台湾」に関する部分が数多く含まれているということも既に知られているところである。
清朝の中央政府の档案の中にある台湾関連の記事については、軍機処や宮中档案の台湾関連記事が大陸や台湾(故宮博物院)で既に公刊されている。だが、これらが果たして台湾史にとって如何なる意味をもつのだろうか。例えば、日本統治時代であっても、国会に関する史料や拓務省史料なども台湾関連のものが多くある。しかし、こうした支配をする側、それも台湾にはない「中央政府」の台湾関係档案は台湾史の史料としてどのように位置付けられるのだろうか。そして、故宮博物院の档案などは、本来は台湾に無かったものが、中華民国政府が台湾に来たために台湾に置かれてしまっているだけなのでである。対照的に、淡新档案(淡水・新竹の県衙門の裁判・行政档案)については、台湾社会の様子を万華鏡的に語ってくれる。これは台湾に十分ひきつけ得る档案である。だが、これもまた清朝の出先機関の档案であることにかわりはない。
日本統治時代についてはどうか。「台湾総督府文書」は確かに重要な史料であるし、この文書を読み解くためには日本の文書行政、行政機構、そして関連諸機関の文書の閲覧・分析が不可欠であろう。台湾の台湾史研究者からみて、これらの史料群全体が「台湾史の史料」として認知されるであろうか。台湾総督府文書は確かに大切だが、それがどのように目に映るのかという点で、台湾史研究者と日本植民地研究者とでは大きく異なる。これもまた広く知られた論点であるが、まだまだ十分な議論が必要であろう。日本の台湾統治史と台湾史は必ずしも等値ではないからである。そうなると、台湾の档案館は何を保存すべきか。総督府文書は国史館分館(旧台湾省文献委員会)にあり、台北州・台南州の文書が国史館に移管された(整理中・未公開)。そして、台湾大学法律学院の王泰升教授らが紹介しているように、日本統治期の裁判文書が各地の法院に残されている。このように考えていくと、台湾社会に近いところにある、地方文書や法院文書が十分に学界や社会に供されていないことに気づく。日本統治期の台湾史に関する基本档案がまだまだ十分に利用される環境にあるかどうか議論の余地があるということになろう。だが、地方政府とて統治者側のものであるとすれば、「台湾史」それじたいが即することのできる史料はどこにあるのだろうか[1]。
光復後になると、状況は複雑になる。外に居るはずの中央政府が、台湾に仮住まいするからである。この中央政府は、のちに台湾化して、台湾政府然とした政府になっていく。そうした意味で、光復後の中華民国政府の档案は台湾史の史料として位置付けてよいのかもしれないし、その中華民国政府とともに台湾に来た人々が、現在の台湾の族群のひとつを構成している以上、国家史としての台湾史の史料として中華民国の档案を位置付けることにそれほどの抵抗は無いかもしれない。
だが、光復後の国民党档案に海外華僑関連の档案が多くあるとき、「台商」でない彼ら、すなわち中華民国の外縁にあり、中華民国の台湾化の中にあって、台湾化することなく中華民国として残された人々や組織の档案をどうするのか。また、筆者が外交史を研究する際、たとえば顧維鈞がアメリカで活動している際の档案などを如何に扱うかが難しい。当時の外交档案など、たしかに台湾にとって死活問題に関わっているのだが、顧維鈞は中国の代表としてアメリカで活動をおこなっている。彼の活動は台湾史の一部分なのだろうか。光復後の中華民国の档案は、国家史としての台湾史の史料たりうるが、中華民国と台湾が同値で無かった当時にあっては、扱いが難しいところになる。無論、90年代以降ともなれば、両者のズレが急速に減少していく過程があるから、中華民国としての档案も、その殆どすべてが台湾史の史料ということになるであろう。
以上のように、台湾史に関する「档案」は、なかなか微妙な位置にある。単純な文献実証主義は、台湾史にとって決して歓迎されるべきものではない。文献実証主義は、19世紀における国家建設過程で必要とされたものであり、そこにはイデオロギー性が存在する。文献実証主義的に考えて実に重要とおもわれる「档案」、これと台湾史との関わりは、一工夫も二工夫もしなければ整理できないものであろう。国家史としての台湾史にとって、档案というものはなかなか難しい存在なのである。档案で築かれる歴史平面が、必ずしも「台湾人」の「台湾史」ではないからである[2]。
◇ 「中華民国」としての文書行政-「中華民国」と「台湾」の2重性-
台湾の档案館、そして档案行政を見る上で看過することができないのは、現在台湾にある国家が中華民国であるということである。たとえ台湾化が進もうとも、国家制度全体にわたって依然として中華民国の「くびき」は深く残されているように感じられる。たとえば、国史館の国史は、まずは中華民国史を指し、その中華民国が「在台湾」という論理で台湾重視に転換したとしても、中華民国が大陸にあった時代の档案を保存・整理・公開しなくていいということにはならない。無論、国民の税金で文書行政をおこなっている以上、大陸時代の档案に割く人員も予算も削減される傾向にあることは確かであり、各档案館ともに、光復後の台湾や日本統治時代の档案の収集に活動の中心を置き始めている。中央研究院近代史研究所は、現代台湾の経済発展に注目し、企業アーカイブをはじめとする経済アーカイブ群を構築中である。また、国史館は、旧台湾省文献委員会を分館としたほか、台北州、台南州の档案を収集し、台湾史研究のセンターとしての位置を高めつつある。台湾における档案館は、基本的に「中華民国」の連続性、そして清からの「中国」としての連続性を否定しない状態で、実質的な台湾化を進めている。つまり、「中国」と「台湾」の両輪をまわしている状態にあるのだ。このような特徴は、故宮博物院を除く台湾の博物館などにはあまり見られない現象だろう。台湾史と档案館の距離、果たしてこれから如何にして縮まっていくのか、あるいは広がって行くのか、研究条件という観点から見れば、大きな焦点となろう。
◇ 中国大陸の史料
中国には国家档案法があり、各機関の档案を各級の档案館に移すことが義務付けられている。他方、北京と南京には歴史档案館があって、民国期以前の档案を保存・整理・公開することになっている(共産党は中央档案館を有している)。これらは基本的に外国人にも公開されており、制限はあるものの、十分に利用可能になっている。
中国の档案館の档案と中国史との関連は、確かに果たして実態を反映しているのかといったような档案それじたいの問題性はあるものの、台湾史に見られるような微妙さはそれほど感じられない。中国は「半植民」と言われながらも基本的に独立国家で有りつづけたので、档案も自らが作成しているからであろう。
この中国における台湾関係の档案はあるのか。この問いにはもちろん「有」という返事が用意されている。だが、たとえば南京の第二歴史档案館にある、1945年から49年までの台湾関連档案(二二八事件を含む)にせよ、あるいは北京の第一歴史档案館に所蔵されている清代の軍機処档案にも台湾関連の档案がある。だが、これらはみな、先に述べたように「台湾」の統治者の残した档案であろう(だからといって見る必要は無いというわけではないが)。これらは既に史料集として公刊されている。また、各省の档案にも、「台湾籍民」「台湾商人」の記録があるし、各地方政府の官僚となっていた台湾人も少なくないので、彼らの活動を知る上では実に有用である。また、これは東京の東洋文庫にある档案だが、汪兆銘政権の駐日公使館档案の中に、中華民国の台北総領事館の档案もある。他方、大連や東北各地に残された日本の統治に関わる档案史料群は、台湾史にとっては比較の対象ともなり、今後のさらなる交流が望まれるところである。なお、中国の地方档案館では、1970年前後までの档案を公開しているところが多く、次第に台湾との経済交流などに関する档案も公開が進んでいくものと考えられる。
◇ 「史料ヘゲモニー archival hegemony」-情報公開か史料保存か-
最後になるが、上記のような台湾史と档案の間の難しさをふまえたうえで、日本との比較の中で台湾の档案行政の特徴をひとつ挙げて本稿を終えたい。
日本は、国立公文書館法、情報公開法などがあり、相応に史料や文書の保存・公開が進んでいるかのように思えるが、日本の文書(館)行政はアジアの中でも大きな遅れをとっているのではないかというのが筆者の考えである。日本における最大の問題は、特に文書の保存・公開について、果たして史料として扱うのか、情報公開の論理でおこなうのかということが十分に議論されないまま、そして文書保存の手建てが十分に講じられないまま、情報公開の論理が優先されるかたちで法制化されてしまったことにある。この結果、各省庁では、情報公開の手続を経られると公開せざるをえないもののうち、公開することに無理があるもの、公開した場合に支障が生じるものについて、それらを大量に廃棄するに至ったのであった。これにより戦後日台関係に関わる膨大な文書が廃棄されたと外務省関係者から筆者も聞いている。史料が無くなってしまえば、日本の視点で歴史を語ることが無くなり、逆に史料をきっちりと保存し公開している国の視点で、歴史が描かれて行くことになってしまう。日本は自らの歴史を放り出してしまった。そして「史料ヘゲモニー」はアメリカやイギリスに握られ、アジア内部でも、最も史料を保存していないために、これからの東アジア史は間違い無く、日本以外の諸国の史料、たとえば台湾の档案などを軸に描かれていくことになるであろう。
では台湾ではどうなのだろうか。台湾では、日本と対照的に「史料」的な観点から国家档案法が制定されていったという背景がある。無論、立法院での策定過程で様々な問題があったにせよ、歴史学者などからの問題提起で档案保存が問題とされ、審議過程で次第に「情報公開」「納税者の権利」といった欧米的な観点が盛りこまれたものの、たとえば文書の廃棄などについて、国家档案局の許可を得なければならないといったかたちで、省庁への拘束が担保されている。確かに、国家档案局が三等機関で国史館や中央研究院はもとより、各部院に対して発言権がないという問題はあるし、予算・スペースからいって档案館として機能することには無理があるが、ひとつの档案管理情報センターとなっていくことが期待される。
東アジア史という観点で見た場合、そして特に日本の文書行政がこのような状態にあることを考えれば、台湾に残された膨大な中華民国档案は、台湾史との関連では微妙な状態におかれているものの、東アジア的立場からの歴史という点で、たいへん重要なものである。すなわち、中国が共産党関係档案および中央政府档案を公開せず、日本がこの状態である以上、(韓国の詳細はわからないが)東アジア現代史を内在的に構成していくための档案群としては、台湾の档案群が最も重要ということになるように思う。そうした意味で、先に述べた「両輪」はともに意義有るものであり、決してヤヌスでもなければ、どちらかだけに意義が有るというものではない、というのが筆者自身の印象である。(了)
[1] 台湾総督府は台湾にあったのであり、またそこにいる日本人も台湾に居たのであるから台湾史を構成する一要素として認知可能だという考え方もあるであろう。だが、この点は、少なくとも「国家史」創出の際には、日本人が「支配者」だという点、そして現在の台湾における「国民」を構成していないという理由から、排除されがちになると思われる。これに対して、光復後の「中央政府」を構成した人々、およびその行為は、現在との連続性の中で、国家史としての「台湾史」の構成要素に十分なりえるものと見なされよう。
[2] こうした意味では、「博物館」が台湾史において(文献以外の史料を扱うという意味をこえて)特別な意味をもつことになる。