急に涼しくなる。朝、次週末にある東アジア近代史学会の報告「日露戦争と中国」の報告要旨を何とか書き上げて、幹事の方々に送る。一段落という感じである。『鄒嘉来日記』はレジュメに入れられなかった。来週までに少し読めるだろうか。
…レポート採点がまだ終わらない。何とかならないものか。200部を採点するのはつらい。
8時15分に待ち合わせて、北京師範大学に向かう。首都師範大学が北京市教育局に属するのに対して、北京師範は国家教育部に属する。もともと、非常に水準の高い大学として知られているが、ここ数年の師範離れの中で、ランキングなども落ちていると聞いている。歴史系は、とても大規模で、規模だけなら北京大学を上回る。中心的存在は、朱漢国先生であろうか。学風的には、文化思想史研究が強いという印象であるが、若手の中には国民党時期の中日外交をしている人もいる。また、中山大学歴史系との関係が深いことも印象的であった。
9時前に到着して、講演をおこなう。学生が50人以上はいたであろうか。内容は「民国外交与南北政権」。外交史を研究している学生が少ないので、直接的な質問は多くなかったが、それでも租界問題、外交史研究を行っていくうえでの「動力」など、多くの質問が出た。中には外交史を研究している博士課程の学生が居て、両岸三地の会議で『鄒嘉来日記』のことを聞きつけて利用したいという学生も現れた。彼女からは、那桐日記の重要性を説かれる。これは確かにそうで、さっそく北京市档案館の機関誌に掲載されていた日記を複写することにした。那桐の動きがわかれば、日露戦争前の中国とロシアの関係もわかるかもしれない。
宴席では多くの話題が出たが、面白かったのは教科書。さすがに北京師範の歴史系だけあって、歴史教科書執筆者がいた。いまのところ、中学歴史は7種類、高校で3-4種類の歴史教科書があるという。もちろん教育部が定めた指導要領があるのであり、聯考もまた、この指導要領に即して出されるのだが、その範囲において多様性が担保されている。採用は、中学であれば省のひとつ下のレベル、つまり市政府の教科書採用委員会が決定、高校であれば省級の同様の委員会が決定することになっているという。メンバーは教師、研究者などが含まれるという。大変、興味深い指摘である。
中華人民共和国外交部から連絡あり。コピーができあがる。代金が3000元程度という。持ち合わせの現金がないので、どこかで下ろさねばならない。しかし、300枚の複写が認められたということは収穫。結構な分量である。
午後は黄楡路にある北京市档案館に向かう。久しぶりであるが、手続きはいっそう簡素化され、また綺麗になっていた。目的の第一は新民会、第二は華北広播協会である。実際、新民会档案については、1989年に史料集が出版されているが、档案それじたいは非公開であった。それだけ敏感なのであろう。しかし、当時の北京の諸機関に、新民会との往来文書などが多く残されており、その外堀から迫ることにする。結果、基本的な史料は見ることができた。史料自体からは、新民会の活動だけでなく、北京市政府との関係などが伺えて興味深いものばかりである。北海道大学図書館所蔵の『新民報』とあわせることで、総合的な研究が可能になるという印象である。
平野健一郎先生の科研および日中戦争関連の国際シンポジウムは新民会で書こうと思っている。しかし、締め切りが九月末。間に合うかどうか。また、山本武利先生から依頼のあった、岩波の『近代日本の学知』の原稿の締め切りも九月末である。華北広播協会の史料が見切れるはずもなく…途方にくれる。
16時半に档案館がしまるので、新民会に関する档案の複写依頼をする。複写は、各ファイルの3分の1までである。このあと、西直門近くの高粱橋路にあるレストラン、無名居に向かう。無名居は久しぶりであるが、古いほうの建物がなくなり、道路を挟んだ側に大型のレストランとして再オープンしていた。チベットに向かう村田雄二郎先生主催の宴会。同先生のグループと駒場のアジア科関係者とお会いする。11名の宴会。村田先生から北京のチベット関連の「史跡」の興味深い話をうかがう。10時には終了し、勺園に戻る。