勺園に戻る。王暁秋先生からの月餅が届いている。
朝、中国科学院に出かけていき、『中国留日同学会季刊』(1-11号、1942年から華北地域で新民会を通じて組織された留日同学会の機関)、『留美学生年報』(1911-1913年。上海中華書局が発行。顧維鈞らが関与したアメリカ留学経験者の会の機関誌)などを複写する。『廣播週刊』は目ぼしい写真や図版をデジカメに収める。中国科学院文献情報中心の7階雑誌室は本当に史料の宝庫である。利用価値はきわめて高い。
午後、北京市档案館に行く。前回の複写物を取りに行くためだが、複写はできていないという。抗議をしてもらったが、どうも複写にはすべて館長の決済が必要で、先週の複写申請時にそれをおこなわずに今週に持ち越したため、館長の出張と重なったのだという。複写については、外国語は駄目、人名などの部分は駄目と禁止事項がある。また、北平廣播台の文書を閲覧し、番組表などを筆写する。興味深い史料である。
北京市档案館の機関誌に掲載されていた那桐日記を読む。1896年の露中密約が日露戦争のときにどのように扱われたのか、やっと判明。週末の学会に間に合うか?
17時半に、五道口の「城鉄」の駅に。今度のラジオ論文集の編集者に会い、原稿などを受け取るとともに打ち合わせ。語言大学のあるこの語道口のあまりの変わりように驚く。東大の法研の院生が尋ねてきていたので、無名居に食事に行く。日本外交史研究の新展開に期待したい。
部屋に戻ってから、明日の社会科学院の講演の準備をする。
天津から連絡。顧維鈞の史料は、家族の同意なども含めて閲覧が極めて面倒とのこと。