朝、天津出身の知り合いからメイル。最近の天津の景気がいいのは、中央銀行のトップが市長になったからだという。かつての天津に見られた党、政治、政協の三箇所を抑えて権力の連鎖は影をひそめたのか。
早朝から講談社の総合誌の原稿を書く。9時には専修大学に着く。東アジア近代史学会の日露戦争に関するシンポジウム。雑談の中で、NHKの司馬遼太郎『坂の上の雲』のドラマ化が頓挫したことを知る。報告では、池井優、海野福寿先生の後、千葉功の前。結構緊張する。コメントは佐々木揚先生。海野先生の第二次日韓協約、日韓併合に関する議論、はじめて直接うかがった。何をどう考えるべきかわからないことが多いが、自分の勉強不足を痛感する。
佐々木先生のコメントは、小生の報告の至らなさを補うようなものであった。質問はいくつかあったが、アメリカとの関係をどのようにとらえるのかということと、満洲自身の問題、ひいては露清密約について慶親王は1896年から知っていたのではないかということ。いずれも答えにくい。第一のアメリカについては、伍廷芳についてはアメリカ依存的な傾向があるとしたが、1900年代末の以降と同じとは言えないという回答をした。結局、こちらが自分で述べて中国保全論に依拠したアメリカ依存外交が1901年から1920年代まで続くとする見解を修正することになった。また露清密約についても、まだまだ検討します、といった回答にとどまった。勉強不足である。
会場から、パワーゲーム、パワーポリティクス的な観点から質問があった。ジョセフ・ナイの日露戦争に対する見解を受けてのことであろう。パワーポリティクスやパワーゲームで歴史を見ることは、ある特定の国家や地域に埋没していきがちな「一国外交史」にとって、冷たい「指し水」のような役割を果たす。細かく実証をつめていっても、パワーゲーム的にはそんなに理屈をこねなくても、当然のことではないか、そのように論じられる。これは政治過程論とパワーポリティクス論の問題であろうが、悩ましいところがある。他方、中国外交史でパワー論が出るときには、中国はパワーの担い手ではなかった、だから侵略されてきたという被侵略論になってしまう。このあたりを縫うようにして回答するのは困難。しかし、会場に理解されなかったであろう。
稲葉千晴先生から日南のシンポについての原稿を書くように言われている。また今回の東アジアのシンポも原稿を出すことになろう。すでに日露戦争関連で二本書いているが、あと二本文、新しいネタがあるかどうか。
セッション終了後、数名から声をかけられる。東大で動き出しているあるプロジェクトの部門責任者になってほしいという要請。これには困る。保留。あと、知己のK君と話す。彼はある財団に就職予定との事。この日記を読んでいてくれて、さまざまなアイディアを共有していることがわかる。研究助成のツボを心得たアカデミック・コーディネーター兼研究者として育っていってほしい。
講談社の原稿を書き進める。