日時:2006年7月1日(土)15:00-17:30
場所:京都府立大学文学部会議室
参加者:岡本、箱田、廖、菰田、早丸、根無、谷渕、森田、川島(敬称略)
1.研究報告
(1)森田吉彦(鈴鹿国際大学・新潟大学非常勤講師)「日清修好条規再考-名倉信敦の見聞を手がかりに」
(2)根無新太郎(京都府立大学大学院博士課程)「清仏戦争期における李鴻章のヴェトナム認識について」
森田報告は、日清修好条規をめぐる交渉過程などを「旧外交」対「新外交」といった二元論の下に語るのではなく、一度、普通の国際政治現象として、あるいは普通の外交史として描く必要性を提唱する。主題としては、名倉信敦を扱いつつ、あわせて日清修好条規について、小中華から小西洋に至るという単線的な歴史観を批判的に検討する。他方、名倉については、従来「変人」扱いされてきたが、それは従来の研究のありかた、観点からして「奇異」だったのであって、同時代的には普通、一般的であったのではないか、と考えられるとした。議論においては、①なぜ名倉を柳原前光のブレインと位置づけることができるのか、具体的な交渉過程への影響(⇒戊辰戦争の過程で遠州国学派の名倉が下層公家の柳原の幕下にあったことなど)、②名倉を一種の「アジア主義者」と位置づけたことの意義(⇒これは後のアジア主義者につながるという歴史的な連続性ではなく、アジア主義者の原型が見られること)、③名倉のフランス行(1863-64年)における西洋認識(⇒「西洋列強の弱点」について、フランス在住の日本人から話を聞きながら、欧州の貧しさ、海外進出の背景を知ったこと、また欧州人どうしが戦うことを知ったことなどにより欧州の問題性を把握したということ)、④国際政治史学、日本政治史学の論文としての意義付けなどについて、議論がなされた。
根無報告は、従来複雑怪奇とされた清仏戦争における中国外交にチャレンジする。特に、それへの李鴻章の認識について、従来「戦争回避、ヴェトナム放棄説」などが見られてきたが、回避や放棄を望んでいたにしても、その程度や内容については変遷があったのではないかと問題提起をおこない、論証を加えていく。そして、李鴻章は、フランス-ヴェトナム、ヴェトナム-中国、中国-フランスの三カテゴリーを、それぞれ個別に扱おうとしていたこと、またそれぞれについても重点が変容していたことを明らかにした。また、関威が述べている「清仏戦争時の李鴻章の外交の策定者ではなく執行者ではない」ということについては、少なくとも「ヴェトナム-中国」という部分では「策定者」であろうという見通しを示した。議論においては、①先行研究について(関威、坂野正高)、②曾紀澤と李鴻章の間の問題、③朝鮮との比較の問題(観念的な意味での属国と実際の属国、北京との距離の問題)、④対ヴェトナム関係は両広総督管轄であったが何故北洋大臣である李鴻章が前面に出たのか(⇒李鴻章の経験?、李・フルニエ協定の有効性)、⑤最終的にフランスと戦争をしたことについて、戦争を回避したかった李鴻章の意向が反映されなかった点で、李を「策定者」とするのはどうか、さらには総理衙門のクーデターなどとの関連はどうか(⇒李鴻章の意向が反映された)、⑥通商、国境問題などの具体的な問題はどうなったのか、フルニエ協定で終わりではないのではないか、⑦「排解」について、⑧中越間の「互市」とその後の通商の関係、などが討論された。
2.そのほか
(1)論文集刊行について(1年程度を目処に作業、研究会メンバー中心)
大学院生メンバー ⇒ 電子メイルで予定テーマを出す(7月中)
枚数、50-60枚。論文10本前後を予定。
(2)国際政治学会部会(10月15日)
(3)次回の研究会について(報告者:谷渕、早丸、9月末から10月初)