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アジア政治論第5回講義レジュメ

第5回講義  2000年5月15日

アジア政治論講義ノート

テーマ:文化「大」革命

0前座
 「国」をつくるということ

1文化「大」革命
■ 四分される「戦後」中国史
 1945~49年 
 1949~66年
 1966~76年
 1976年(あるいは78年)~2001年
☆ 「戦後」という概念じたい日本的。東アジア全体でみれば1930年代から70年代まで戦争の中にあると考えたほうがいい。
■ 大躍進政策(第二次5ヵ年計画1958~62年、そして3ヵ年の調整期1963~65年)
⇒毛沢東は人民公社が解体の危機に瀕している状況を、「修正主義の発生」とうけとめて、
  「反修正主義的」政治運動をおこす。これが文化「大」革命のおこりである。
 
2二分される評価
A.現在の中国における文革に対する評価…偉大な革命家である毛沢東の晩年の「誤り」
  ⇒「文化大革命」において批判されていた多くのもの(修正主義・あるいは資本主義
    とみなされたもの)は実際にはマルクス主義の原理と社会主義の原則である。
  ⇒党にブルジョア司令部などは存在していない。打倒された人々の多くは党と国家の
   各級組織の中枢にいた指導幹部であり、社会主義建設の中核的な存在であった。劉
   少奇同志に与えられた評価「叛徒・内奸・工賊」の罪名は完全に誤っている。
  ⇒この運動は党組織からも逸脱、また広汎な民衆の支持も受けていなかった。
B.文革の当事者たちの見方
  ⇒「党・政府・軍隊と文化領域の各分野には、ブルジョア階級の代表的人物と修正主   
    義分子がすでに数多くもぐりこんでおり、かなり多くの部門の指導権はもはやマ
    ルクス主義者と人民の手には握られていない」(八期十一中全会)
  ⇒実権派を打倒するための「下から上への」政治大革命
 ■第三の見方はあるのか

2経緯
 二つの見方 ⇒ 1966年政治局拡大会議、あるいは8月の八期十一中全会
         (彭真・羅瑞卿・陸定一・楊尚昆/劉少奇・鄧小平)
         から九期党大会まで。
         あるいは、四人組み失脚まで。
 1966年5月 清華大学附属中学紅衛兵が毛沢東支持「造反」⇒毛沢東個人崇拝へ
        中央党文革小組(陳伯達・江青ら)
 1967年1月 黒龍江省革命委員会、武漢事件(地方へ、解放軍へ)
 1967年2月 2月逆流(李先念・葉剣英…)
 1969年4月 第九回党大会(林彪・江青らが実権掌握)
         林彪 ⇔ 四人組 ⇔ 周恩来グループ
 1971年9月 林彪の死
 1974年   四人組・「批林批孔」運動
 1975年   鄧小平再失脚
 1976年   周恩来死。天安門事件。

3いまからみた評価
 プラスとマイナス

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