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アジア政治論第15回講義レジュメ

2003年7月18日
第十五回講義
アジア政治論講義

質問などは質問票に記入ください。授業が終わった後にいらしてくださっても結構です。
メイルのかたはshin@juris.hokudai.ac.jpまで。また教務掛前の8番のボックスに質問票をいれてくださっても結構です。レジュメなどは、 http://www.juris.hokudai.ac.jp/~shin/ にあります。

0.時事関係
1.国内改革を再優先課題とする中国
2.特に重視される経済建設
3.政治状況
4.政治過程
5.歴史過程
 A.1940年代から50年代前半
  (1)1940年代:国共内戦期の状況と国際関係
             1937年7月7日   日中戦争
             1941年12月8日  真珠湾攻撃
             1945年8月15日  日本の敗戦
  (2)国民党と共産党の問題
             1930年代から40年代の中国大陸の状況
                日本軍・国民党軍・共産党軍・その他の勢力の混淆状態
                最初に負けたのが日本。
                国民党と共産党の違い。
  (3)国民党の敗北、1949年10月1日に中華人民共和国成立
  (4)建国当初の中国に課せられた課題
             「統一」「独立」 ⇔ 中華民国が本来考えた将来像
  (5)冷戦構造、対日講和状況の変化、中華民国の苦衷
  (6)しかし、台湾では「二二八事件」。 国民党統治への幻滅、戒厳令、一党独裁軍事支配。
  (7)朝鮮戦争
                日本は朝鮮特需。中国共産党は、「参戦」(義勇軍)。
                中華民国はアメリカからの支援を得ることに成功。それ以前、アメリカは
                台湾放棄論がどちらかといえば主流。
 B.1950年代半ば-1種のデタント(緊張緩和)、戦後東アジアの基礎形成  
(1) 中国における第1期全国人民代表大会(1954年) ⇒ 「社会主義中国」
(2) 日本では所謂「55年体制」
(3) 台湾では、1952年第7回国民党代表大会、蒋介石独裁権力の確立。
   蒋経国への継承路線。反共青年団。
(4) 1956年4月、とうとう毛沢東が「十大関係論」でソ連批判。
(1953年スターリン死、1956年2月ソ連でスターリン批判。12月、中国はスターリン路線肯定)…揺れる「路線」
  (5)「百家争鳴・百科斉放」(56年4月) ⇒ 57年には反右派闘争

 C.1950年代後半-大躍進と中ソ対立
(1) 1958年3月 毛沢東「大躍進構想」、5月には「社会主義総路線」、中共軍事委員会で核開発路線確定、8月党中央政治局会議。人民公社設置。鉄鋼増産。ソ連との関係は維持(7月フルシチョフ訪中)
(2) 国際協調路線の限界
長崎国旗事件(1958年5月)、金門・馬祖砲撃
59年チベットで武装反乱(ダライラマ亡命) 
(3) 大躍進は各方面から批判。当初毛沢東も人民公社の行きすぎ是正。
   しかし、59年大躍進を批判した彭徳懐が「反革命」と批判され、「反右傾闘争」の開始。
(4) 台湾では国民党教育、支配の確立期。
(5) 1960年、日米安保。中ソ論争激化。ソ連の在中技術者ら1000余人引揚。63年本格化。
(6) 韓国で朴正熙軍事クーデタ
(7) 中印国境紛争、カザフ人が新疆からカザフスタンに大量脱出(6万人)

 D.「文化大革命」へ 
(1) 1981年「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」
「文化大革命は指導者が誤って引き起こし、反革命集団に利用されて、党と国家と各民族に大きな災難をもたらした内乱」であった。
(2) 1966年からの10年間は「失われた10年」だったのか。
劉少奇国家主席、鄧小平総書記はじめ、リーダーの4割は失脚。
(3) 1962年9月、第八期10中大会
「社会主義はかなり長い歴史段階であり、この段階には、まだ階級、階級矛盾および階級闘争が存在しており、社会主義と資本主義の二つの道の闘争が存在しており、資本主義復活の危険性が存在している」 
     ⇔しかし、劉少奇、鄧小平らは現実調整路線(大躍進期のマイナスおぎなう)
(4) 1963年、林彪が解放軍を掌握 ⇒ 以後、毛沢東支持へ
(5) 1966年5月 中央政治局会議 文革の開始。「文化大革命の司令部」
(6) 66年から69年。紅衛兵活動、劉少奇失脚。
(7) 現象としては、「動員・宣伝」「熱狂・狂気」。しかし、「反近代」「反権威」、ある意味で血統主義。(国際情勢的にも行き詰まり)
(8) 政治権力的観点から言えば、初期は毛沢東が紅衛兵という「党・国・軍」のいずれにも属さない勢力を基盤にしたということ。67年以降は逆に「党・国・軍」の三者が合併した「革命委員会」を各地に組織し、そこに権力を集中させたということ。
(9) 1969年、林彪「戦争準備を強化する緊急指令」 ⇒ ナショナリズムと非常事態
(10) しかし、1970年12月毛沢東がニクソン訪中を歓迎と発言
(11) 1971年、林彪失脚(9月)、七月にはキッシンジャーが秘密訪中。72年ニクソン訪中。
日中国交正常化。台湾の立場が困難に。
(12) 1972年から1977年の文革終結まで。76年周恩来、毛沢東死去。四人組失脚。
(蒋介石は1975年死去)

E.改革開放へ

(質問などは質問票に記入ください。授業が終わった後にいらしてくださっても結構です)

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