2003年度前期アジア政治論試験講評
川島 真
問題文・採点基準
条件:ノートなど(自書のもの)持ちこみ可。複写物、書籍、印刷物などは不可とする。
問題 以下の4問のうち、2問につき回答しなさい。回答用紙の左上に、第何問に対する回答かを明記すること。
(1)現代中国における権力のありかたについて考えるところを述べなさい。
(2)中国現代史の時期区分について、自分の見解とその根拠、有用性、問題性について述べなさい。
(3)「改革開放」について、その前後における連続性と【非連続性】について述べなさい。
(本問題は、「連続性」だけで回答しても可)
(4)中華人民共和国の国家のありかたについて、ナショナリズム、国家機構(state)、党、軍との関係を意識して述べなさい。
採点基準
(1)どの問題を選択したかは、採点対象としない。表記、日本語は評価対象とすることがある。(留学生などについては意味不明な場合は除き特に対象としない)
(2)基本的に、論理性、展開性、また基礎的事項、内容をきちんと押さえているかということを見る。語句の羅列、根拠、事例のないもの、説明が不明なものは減点する。
明かに類似した答案、パターン化された答案が見つかった場合、評価を相当下げるか、採点対象から外すことがある。
(3)答案は返却し、結果・基準などをウェブ上で公開する。昨年度のものは既に公開している。
■出題意図
これらの問題は、それぞれ博士論文になるような大きな課題であり、また何か「完璧な正解」があるわけでもない。また授業の中で、集中的に話をした話題と謂うわけではなく、毎回毎回の授業の中で少しずつ話してきた内容である(授業でヒントなり、関連した内容を話していないものは当然出題していない)。そうした意味で、ウェブ上の情報とか、参考書を漁っても、なかなか回答を作れないものである。期待したのは、自分自身で断片的な情報(授業や参考書など)を集めながら、それを自分の頭で再構成して回答を作成すること、である。そして、再構成する際には、たとえば政治学とか、歴史学といったような関連諸分野との関連を意識して欲しかった。
問題を一瞥すれば理解できるように、(1)(4)は政治学的、(2)(3)は歴史学的な問題である。(1)(4)については、本講義が政治学のカリキュラムの中に組まれていることを意識したものであり、まずは政治学が根源的問題として扱う「権力」について取り上げた。国家については、現代中国においてその位置づけが変遷していること、また昨今の党から国家へという変化などを考慮して出題した。他方、(2)(3)の時代区分論については、出題者が歴史学出身ということもあり、現代中国を通時的に把握する試みをして欲しかったので出題した。授業で経済、政治など各方面について話した内容をもとにして再構成を試みる中で全体像を把握することを期待した。また改革開放前後については、(2)の核心的部分である。昨今の中国については、「改革開放以後」というように、改革開放開始にともなう断絶を過度に強調する雰囲気があり、逆に連続性を乱すことによって、「社会主義・市場経済」の「社会主義」の問題に、思いを馳せてほしかったということがある。政治的に見て、改革開放はどのような位置づけになるのか?「資本主義化しているのに、社会主義体制であるのは矛盾だ」などという浅薄な中国論をもたないためにも、連続性について考えて欲しかった。
具体的には、(1)が権力、(4)が国家。これらは権力、国家それぞれの「ありかた」について、そもそも何を取り上げるべきかを、政治学の教科書などを見ながら格闘し、骨子を固めながら、一方で中国の実情にあわせた内容をつくっていく必要があったと思う。また、(1)は(4)の上位にある問題であり。(4)は(1)の各論とでも言うべきものである。(2)(3)については、時代区分とはそもそもどういったものか、何を指標とすべきかなど、「時代区分論」について検討し、そのうえで上位にある(2)、本来なら(2)の核心部分をなすべき(3)がある。連続性については授業で協調していたので、あまり参考書などには出ていないと思うが回答可能と考えた。
なお、方法論として「事前に問題を出題しながら、手書きノートのみの持込で、試験期間中にわざわざ書かせる」ということを学生諸君にしていただいているのは、先に述べた情報収集、論理構成などといった問題とは別に「筆写効果」を期待したためである。学生諸君が、ノート、参考書、ウェブ上の情報などを収集し、それを再構成しながら答案にまとめたうえで、それを下書きし、さらに試験会場持込用の原稿を書き、当日また書き写すことで、2-3回は筆写することになる。筆写するという行為は、意外に頭の中に内容がはいると同時に、書きながら沸く疑問を解決するという作業を惹起する点で意義深い。また、法学部で学ぶ学生諸君が中国のことを集中的に学ぶ機会もないと思い、あえてこうした手法をとっている。
■採点講評
<総合所見>
いまいちど採点基準を確認して欲しい。「基本的に、論理性、展開性、また基礎的事項、内容をきちんと押さえているかということを見る。」まずは問いそれじたいを受け止めて欲しかった。権力・国家云々と問われたら、そもそも権力とは、とか国家のあり方とはということを一般的に考えてみて、そのうえで中国のことを考えるとか、中国における権力、国家などについて見た後で、一般論と比べるなどの工夫が欲しかった。時代区分をするなら、時代区分論の指標には何があるのかとか、オーソドックスに政治・経済・社会・文化などにわけて考えてみるとか、何かしらの工夫が欲しかった。全人代の制度を羅列したり、何年に何があったなどということを羅列する答案が目立ったことは、多くの答案が「考える」という作業を怠り、単に調べたことを書いたことに由来するのであろう。また、答案の書き方として、正面から答えていない答案が目立った。連続性・非連続性と問われたら、連続性が何で、非連続性が何、というようにわかりやすく書いて欲しい。こうした問いにきちんと答えていないものは25点/50点満点とした。問いに答えていれば、30点以上である。ここから先は内容で採点をした。40点が優相当、35点が良相当ということを意識し、最終的にほぼ全員に5点の「ゲタ」をはかせた。結果的にではあるが、三年生にはやや不可が目立ち、学年があがるにつれて減少していった。それは回答の中身ということもあるが、問いに正面から答えようとしているかということが大きかった。前述のように、出題内容はいずれも博士論文に相当するようなものであり、一時間半で書ききれるものではない。だからこそ、何かの内容がはいっていれば何点といったような採点というより、一般的な内容も含めて考えているか、きちんと内容を展開させているか、主張は明確か、といったことが重要となるものと感じている。
また、嫌気がさしてしまったのは、「中国は怪しい」、「こんな滅茶苦茶な国」、「このような矛盾した制度は改めないと・・・」的な答案である。まず、日本にいる自分が先進国側に居て正しく、周囲のアジア諸国を指導するのだといったような、根拠の無い「思い上がり」はいい加減に放棄していただきたい。法学部と謂うところが、明治以来欧米志向で、まさに日本のオリエンタリズム醸成機能を担っているということは重々理解できるが、すでにアジアの中でも相対化されつつある現在にあっても依然として先入観と予断で世界を見るような姿勢については今後の思考硬直のもとである。すなわち、いつまでも日本が上、アジアの代表などのように考えているから、アジア諸国の中で日本がむしろ「まあよい」程度におちたと感じるとき、適応できなくなってしまうのである。中国脅威論などもそうした不適応の一種だと見ることもできるだろう。もちろん、日本がアジア諸国に協力できるところもある。だがそれは個別具体的なことであり、日本が学ぶべきところ、また協力すべきところも多数ある。国益を重視するのなら、冷静で覚めた感覚が必要なのであり、「一番」でいることが国益ではあるまい。「…すべき」といった答案は、「怪しい」といった答案よりも予断が小さく、「提言型」だともいえるのだが、それほど簡単にそんなことが言えるのかと謂ったことがある。そもそも民主主義なり、法なりが何のために存在するのかということを考えていけば、もし手段としての民主主義や法を無理に用いることで、本来民主主義や法が必要とされた根源的な部分が崩壊するのなら、それは手段として適当かという根本的な問題が生じるだろう。この点を考慮せずして、簡単に「すべき」とまでは言えないのではないだろうか。確かに、中国には多くの改善すべき点があり、また中国自身も改善しようとしているのだが、まずその状況を理解することに努める必要があるのだと思う。そうしてはじめて提言ができるのではないだろうか。学生諸君には、相手の状況も理解するなり、自分の思考を相対化する複眼的思考を持って欲しい。
なお、採点基準にも記したように、他人と同じ答案があった場合には厳しい処置で臨むということがある。今回は数組しかなかったが、それが本当に友人のものを借りたり写したり、あるいは数名の学生がウェブ上の情報を丸写ししたため、同じような答案が出現したのかは不明である。しかし、いずれにしても、オリジナリティがない答案であり、そうした意味で大幅に減点してある。他方、「剽窃」については、様々な判断があると思う。この点について、アジア政治論のような科目では、当然ながら学生諸君が問題に見合った参考文献を探してくることも能力のうちにあると考えているが、しかし、丸写しということになるとそれは受け入れがたいという立場をとる。ウェブ上の「検索」によって様々な情報がとれる今日、このあたりの信頼関係がなくなってくると、今後、レポートを通じた評価というものが、ありえなくなってくるという印象を持っている。
<各論>
第一問 現代中国における権力のありかたについて考えるところを述べなさい。
この問題は相当厄介であったものと思われる。「権力」それじたいの扱いが極めて難しいからである。ここで西洋思想史や政治理論における「権力論」をもってきて、回答のほとんどをその説明に費やし、中国のことを事例説明的に用いた答案もあったが、それは優とした。どのような権力論であっても、権力とは何かという検討をして欲しかった(権威との区別もしっかりつけて欲しかった)。例えば、権力というものは「人事と財政」だというような卑近な見方でもよかった。それに反し、極めて多かった答案は、最高権力機関とされる全国人民代表大会の制度を検討しようとするもの、及び党・国家・軍について検討しようとする答案である。こうした制度論でも解答を作成することは確かに可能だろう。制度には権力のありかたが反映されるとも言えるからである。だが、これらの制度を全面的に論じた答案は決して多くなく、多くが全人代だけ、党だけといった具合であった。権力論が無くとも、これらを全面的に検討していれば優とした。また「中国は全ての権力を共産党が握っている」といったような答案も目立った。これは的外れというわけではないからいいのだが、もし党に絞るならば、なぜ党が権力を握ることができたのか、なぜいま握っていられるのか、またそこにおける権力とはどのような権力かといったところまで掘り下げてもらえれば、優を出すことができた。このほか、江沢民や胡錦濤といった「権力者」に注目し、一部の人間が権力を独占しているとするような答案もあった。これも完全な誤りではないが、この場合でも、これがウェーバー的なカリスマ支配なのか、なぜ権力が個人に帰属するような状態がうまれるのかということをしっかり述べて欲しかった。
第二問 中国現代史の時期区分について、自分の見解とその根拠、有用性、問題性について述べなさい。
回答の方法をまずきちんと考えて欲しかった。すなわち、何を基準にして時代区分するのか、それをまず明示することが必要である。それが根拠、有用性、問題性に繋がる。無論、現代の起点をどこに求めるのかということも問題となる。1900年、1919年、1920年代半ば、1949年、1978年など、さまざまな観点がありえる。だが、これらはいずれも何を以って時代区分するかということと密接な関係がある。無論、時代区分という作業それ自体があくまでも便宜的におこなわれるものであって、あらゆる事象を網羅することはできない(だからこそ有用性と問題性について書いてもらう設定とした)。しかし、時代区分をおこなうという作業を通じて、全体の事象や物事の経緯を整理することができる。それが出題意図であった。また、大枠として方針が決まったら、あとは中身をつめていく作業をして欲しい。つまり、いかに自分のおこなった区分が有用であるかということを説明してほしかったのである。また、この問題において、「文化大革命」、「改革開放」をどのように扱うかという問題があったということも看過できない。
第三問 「改革開放」について、その前後における連続性と【非連続性】について述べなさい。
(本問題は、「連続性」だけで回答しても可)
これは出題の際に「連続性」と「断続性」という書き方をしてしまったために学生諸君にご迷惑をおかけしてしまった問題である。採点に際しては、連続/非連続だけでなく、連続だけで書いた答案も50点満点で採点した。答案のかたちとしては、要するに連続性が何で、非連続性が何かということ、可能ならその根拠や事例なども記してもらえればいい答案。一般的な参考書を見ても恐らくは「変化」ばかりが強調され、連続の部分はあまり述べられていないのではないかと考え出題した。「改革開放政策以降・・・」というように、何につけ改革開放ですべてが変わったかのように説明することが普通になってしまっている現在、逆に、連続していることを考えることによって、またあるいは連続と非連続の双方を考えることによって、定説を再検証するという方向性が出せるのではないだろうかと考えた。また、授業においても、何度も連続性の部分を強調した(特に政治体制の部分は連続性を強調したはずである)。しかし、多くの答案では「連続」の部分を書ききれて居なかった。78年から79年で変わったことは何か、特に党と軍の関係、党と国関係などについて、調べなおし、しっかりと書いて欲しかった。非連続性については、四つの現代化などが想起されるが、これも必ずしも完全に非連続と謂うわけではない。逆に鄧小平は改革開放で本当のところ何を変えようとしたのかという疑問がわいてくる。こうした疑問をもってくれればと考えている。
第四問 中華人民共和国の国家のありかたについて、ナショナリズム、国家機構(state)、党、軍との関係を意識して述べなさい。
この問題は第一問と対になっている。昨今の中国で「党から国へ」と政権の重点が移りつつあることを考慮して、このような問題を設定した。様々なアプローチがありえるだろうが、党と国の関係、党と軍の関係だけに収斂させるのではなくて、国民統合や地域統合、あるいは多民族国家中国の統合の論理なども考えて欲しかった。そのために「ナショナリズム」というタームを指定したのである。中には、教育や宣伝について論じてくれたものもあった。だが、あくまでも「国家のありかた」を問題にしているので、第一問同様、まず「国家」のありかたについて一般的に考えて欲しかった。一般化しながら中国を位置づけるという作業まできっちり論じた答案はあまり無かった。他方、憲法の条文からこの問題を解くということも考えられよう。その場合は、国家の権限、国家意思、主権などについて丹念にひろっていくことが求められる。全人代のところだけ抜き出したのでは無理がある。総じて、第一問にせよ、第四問にせよ、あまり丁寧につむいだような答案が多くなかったのが残念である。
【成績状況】
三年生 90名 (優22名/良31名/可28名/不可9名)
四年生 43名 (優14名/良19名/可7名/不可3名)
大学院 16名 (優11名/良5名)
総合 149名 (優47名/良55名/可35名/不可12名)
★ 先に記したように、点数についてはほとんどの学生に5点のゲタをはかせた。もしそれがなかった場合、昨年度同様は優から不可がそれぞれ四分の一ずつ、あるいは優が少なめで残りが三分の一ずつということになったものと思われる。大学でも、やがて相対評価が導入されることを考えれば、そのようにすべきであったかもしれないが、「全く見当はずれ」とも言い切れないものを不可とするのに躊躇もあり、5点上乗せして調整した。
■感想
この試験の結果をいかに受け止めるかということについて、まずこちらの授業に掲げた目標が達成できたのかどうかということ、また同時に授業に参加した学生諸君の目標達成度や満足度が問題となるのであろう。授業で「経線」を張り、最後のレポート的試験で「緯線」をつむいでもらうことによって、ひとつの像を描いて欲しかったのだが、結局のところ参考書やウェブ上の情報の丸写し答案が目立ったことを考えれば、よりこまめに参考書を提示するか、あるいは予備校の授業のように、毎回毎回チャート的な「まとめ」をしたほうがいいのかもしれないと思わなくも無い。「考えるための材料とヒント」をこちらからばらまいて、それをまとめながら参考書などで補充してもらいたいと考えるのだが、少なからぬ学生諸君がどこかの本に「それらしいこと」があるのではないかと「回答探し」をし、見つけたものをつぎはぎするといった対処方法を示してくる。こうなると授業の評価ではなくなってしまう。また、少々驚いたことに、こちらが授業で強調したこと(たとえば改革開放前後の連続性など)について、ほとんど要を得た解答がなかったということがある。学生諸君がノートをもとにして解答を作成していないか、そもそもノートがとれていないかのどちらかである。もし、ノートがなくプリントだけで勉強しようとしても、それは無理というものである。また、配布プリントと参考書をつなぎ合わせたらぼろぼろになっていくと思われる。それぞれの参考書には立場や視点というものがあり、別々の背景をもつ文章をつなぎあわせたところで、結局は意味不明の文章を作成することになってしまうからである。どこかに「回答」があるのではないか、「それらしいところはないか」と探すといった作業には限界がある。そういった、考えないでどこかからもってくる、というスタイルはいったいどこから来るのだろうかと考えてしまう。
「中国を見る視点」を獲得してほしいと考えて話しをしてきたつもりであった。質問表にもそれなりに回答した。学生諸君も、毎回の受講者130名前後のうち、過半数は一生懸命聞いていてくれたし、喰らいついてきてくれていたと思う。試験も、決していい加減ではなく、それぞれ苦闘した跡があった。だが、こちらが設定して「中国を見る眼」が少しでも芽生えたのかということになると(もちろんたった一学期でそんな眼ができれば苦労はないのだが)、試験を受けた149名中、どの程度の学生諸君がその目標を達成できたのであろうかと考えてしまう面がある。これは学生諸君の問題ということではなくて、おそらく教える側の問題だと思う。今後は、情報量を減らし、内容を絞って(高校で週に10コマ教えていたときは、50分授業で、毎回だいたい1-2個のことに絞って学生に伝えるということを考えていた-大学では90分だから3個程度のトピックを絞るべきなのだろう)、よりスクーリングシステム的に、毎回毎回到達目標を定め、毎回毎回到達度をチェックしていくようなかたちになっていかざるを得ないのではないかと思う。あるいは、もっと動機付けとか、関連付けとかいうことをこまめにしなくてはいけないのだと思う。また評価についても、次年度からレポート的な試験で評価をするということは無理ではないかと思う。今年は、現代中国を経済から政治へと話していったが、アメリカの学部学生向け授業における中国政治のようなイメージで講義をおこなう必要があるのだろうと感じるに至った。これは大いなる反省点である。(了)