佐藤真紀子
(平成14年3月 北海道大学大学院専修コース[国際総合] 修士課程修了)
(現在、中国・青島留学中)
ここでは、一年間の留学生活を振り返りたい。
北大を卒業するに際して、私は将来進むべき道をあれこれ悩んだ。日本で就職するか、大学院での研究を続けていくのか、それとも単身赴任している夫の赴任先の中国に行くか。悩んだ末、私は中国に行くことに決めた。中国に行って語学を学ぶことは、私自身の将来のためにもきっとプラスに働くことになるだろうと漠然と考えたからである。北大大学院に在籍していた二年間のうち、こうした事態を予測し、論文を手がける傍ら中国語を独学していたが、いざ現地に赴いてみるとそれは何の役にも立たず、常に紙とペンを持参して相手に自分の要望を伝えるのが精一杯だった。
<北京語言文化大学にて>二〇〇三年四月~七月
このような状態だったので、北京では一から中国語を勉強しなおすことになった。北京語言文化大学の初級班は中国語の発音の学習を非常に重視しており、そのお陰で中国語の発音には少し自信を持てるようになり学習も進んだが、唯一の難点は日本人留学生が多すぎることであった。この大学では、韓国人と日本人だけで恐らく学生の三分の二を占めてしまう。日本人の友人が多くいたお陰で、初めての海外生活で感じがちな孤独感や不安感を味わうことなく過ごすことができた反面、中国語で話をする機会を多く失った。
ここで一番悩んだのはルームメイトとの関係である。私は既に一年間北京で語学を学んでいる二十歳の韓国人と一緒に生活することになった。毎日夜中三時過ぎまで続く友人との電話に極度の不眠症に陥り、加えてサッカーワールドカップが始まってから、日々彼女の友人達が部屋に押し掛けては熱狂的な応援を続けたため、精神的な安定をすっかり欠いてしまった。言葉がうまく伝わらないという劣等感や、三ヶ月しかここにいないのだから彼女たちとは円満にやっていきたいという遠慮から、その気持ちを言葉に出せないまま、ひたすら我慢し続け、留学生活終了後は半ば逃げるようにして帰国した。日本にいる時のように「言わなくても相手が察してくれるだろう」というような態度でいては自分の考えは伝わらないと当たり前の事ながら今さらながらに実感した。
<青島大学にて>二〇〇三年十月~
夫の仕事の都合で青島大学に行くことになった。青島は大変美しく、発展した都市である。海に面しているため、北京のような乾燥もなく快適である。孔子や孟子といった中国の偉大な思想家を生んだ場所であることから、青島人は比較的礼儀正しく、教育にも熱心だ。私はここで、中国語中級班に入り、友人達とお互いに拙い中国語を用いつつ、友情を深めた。現在SARSのため一時帰国を余儀なくされ、ひとり日本で中国語の学習を続ける日々を過ごしている。
<最後に>
私は中国での初めての一年間を、「中国語を学ぶ」という目的を達成するためだけに費やした。こうした生活の中でさえも、しばしば驚愕と失意の感情を抱いたことがあったが、大体中国の習慣に従って過ごせばそれで問題なく過ごせた。むしろ、中国を外側から見るのと内側から見るのとでは、その印象はだいぶ異なり、そうした違いを私自身が楽しんでいたところもあった。しかし一方で、徐々に中国人と接する機会に恵まれ彼らと意見を交換したり、また日本企業が中国に多く進出して奮闘している様を身近に目にするにつれ、中国に存在している「日本人としての私」の立場を強く意識するようになってきた。これから中国で学習を続ける際、語学を学ぶことの他に、自文化に対する認識の相対化と他文化への理解という見地から、客観的立場で中国という巨大な対象に接近する必要がある。しかしそれ以前に「中国をどう(どういう視点から)見るか」、これ自体が今の私にとって大きなテーマである。
まずは、中国の生活で起こりうる様々な出来事や変化に動じないだけの柔軟な対応ができる実務的能力を身につけた上で、中国社会の巨大なダイナミクスとその深淵を内在的に捉える目を養っていきたい、これが私の今後の課題である。