博士(法学) 廖 敏淑
学位論文題名
互市から見た清朝の通商秩序
学位論文内容の要旨
1940年代以降、ジョン・キング・フェアバンク(John King Fairbank)をはじめとする学者たちが、清朝固有の外交制度を説明するため、中国明清時代以来の朝貢の事例を取り上げ、清朝のみならず、中国在来の対外関係・対外貿易を「朝貢体制」としてまとめた。しかし、明と清の朝貢に関する事例を取り上げて、清朝固有の外政・通商制度を述べることは、清と明の連続性を過大視しすぎるのではないか。実は明清時代の対外体制の連続性はフェアバンクらが考えた説より、少ないかもしれないと思う。また、「朝貢体制」が清の対外関係を包括できるか、明・清両時代の朝貢から抽象化した「朝貢体制」を中国の歴史全体までに拡大できるか、も疑問である。当然、「朝貢体制」論に対し、疑問を持っている研究者は多くいる。「朝貢体制」論に対する反動の中で、最も有名なのは、やはり「朝貢体制」論が生まれたアメリカの中国史学界である。「朝貢体制」論の背後には、濃厚な西洋中心主義的歴史観が見え隠れするので、1970、80年代から、アメリカの中国史学界では、「朝貢体制」論を修正し、中国の内在性・自律性を強調して研究すべきという「中国自身に即した」アプローチが台頭してきた。そのアプローチに影響され、日本の中国史学界においても、中国史を再認識する動きが見られる。様々な動きの中で、中国の固有の通商秩序及び経済史の視点から、フェアバンクらの「朝貢体制」論を修正しようとするのは、濱下武志が主張する「朝貢貿易システム」である。にもかかわらず、中国固有(特に明清以来)の外政・通商制度を朝貢(貿易)体制を見做すことにおいて、「朝貢貿易システム」は「朝貢体制」論と同じである。
「朝貢体制」論や「朝貢貿易システム」が定義した清朝の通商秩序に対し、中国の歴史学界は、いつも疑問を抱いているが、全面的に清朝の通商制度・秩序の具体像を示した業績は、また見られない。よって、中国の視点から清朝の通商制度・秩序を提示する研究が必要だと考えられる。
古来、外国と中国の通商貿易行為を指す言葉について、中国側の史料を調べれば、「朝貢貿易」という言葉を見つけることができないが、通商・貿易・交易の同義語である「互市」の方は、よく目に入るのである。さらに、清当局が自国の通商制度をどのように見ていたか。乾隆帝の諭旨で編纂された『皇朝文献通考』を見れば、清は、本朝の「互市」制度は宋朝から継承した、と述べたことがわかる。よって、「互市」の視点から、清朝の通商制度を考察すれば、清朝の固有の通商体制の実像を見つけることができるのではないかと考え、筆者は、この問題を博士論文のテーマとして取り組んでいる。
緒論では、清当局が本朝の「互市」制度を宋代まで溯っていたと述べたため、まず、宋代から明代にかける「互市」制度を考察し、清朝の制度の由来を把握する。そして、宋代から明代にかける陸路・海路「互市」制度を紹介することによって、中国の固有の通商制度は「朝貢貿易」ではなく、「互市」だと論証する。
第一章では、『皇朝文献通考』の編纂者が、「互市」の場所によって、清朝の通商貿易の種類を、「海舶」、「関市」、「在館交易」の三つに分けているため、筆者は、清代のこの三つの通商貿易の事例をそれぞれ取り上げ、清朝の通商制度・秩序の実態を究明した上、清朝の通商制度・秩序と清代以前の「互市」制度の連続性を指摘する。そして、取り上げた事例から、清朝と通商貿易をする国・政権と清朝の関係も見られる。清の「與國」、属国など清と外交関係を持つ国、そして清と外交関係を持たない「互市国」は、みな清と通商貿易することは可能である。よって、正式の外交関係の有無にかかわらず、清の通商秩序に従えれば、外国商人がみな清の互市場で交易することは許される。
第二章では、1689年のネルチンスク条約以来、清と対等な外交関係を持つロシアが、中国との通商貿易のあり方を考察する。ネルチンスク条約以降、清朝がロシアを「與國」として扱ってきた。「朝貢体制」論は、清朝の対外体制を「朝貢体制」として認識するため、清朝が外国を対等的に扱わなく、みな「朝貢国」と見なすことを主張する。しかし、少なくとも、清露関係には「朝貢体制」論が適用できない。本章によれば、ロシア隊商が清の通商制度に従い、中国貿易を行なっていたことがわかる。
第三章では、アヘン戦争以降、次々と締結された清英、清米、清仏条約を取り上げ、その所謂西洋近代的な条項を分析しながら、それらの条項と清朝の固有の通商体制の関連性を明らかにする。「朝貢体制」論は、1842年以降の清英条約を注目し、中国が南京条約を締結してから、西洋の衝撃によって、従来の外交・通商制度が次第に崩壊して、中国の外交・通商制度が「条約体制」となったこと、を主張している。しかし、本章の考察によれば、清朝の固有の通商秩序が、1842年以降にもほぼ維持されたこと、そして所謂「条約体制」の中での条項は、実は清朝の固有の制度にしたがうものが多いこと、などがわかる。また、英国が清朝と対等な平和条約を締結したため、清にとって、英国はこれまで広東などの開港場で貿易する「夷」たる「互市国」から、清の「與國」となった。
第四章では、第二次アヘン戦争以降、清朝と英・仏・露・米の間で締結した諸条約を取り上げ、分析する。これらの条約によって、清朝の外交制度が大きく変化したと考えられる。しかし、通商において、協定関税による税則の改定や外国人税務司制度の導入などの変化があったが、諸国が中国の開港場や互市場で貿易している限り、中国の商業・通商秩序に従わなければならないところが多いため、清朝の固有の通商秩序はまだ多く維持されていると考えられる。
第五章では、清と日本の通商関係を取り上げる。1871年の日清修好条規及び通商章程が締結されるまで、日清両国には、政府間の公式の外交関係が築かれなかったが、長崎に通う中国商船の貿易によって通商関係を持っていた。長崎貿易の存在のため、清朝は日本を「互市諸国」として認識していた。本章において、まず、長崎貿易の有り様を紹介しながら、外交関係が築かれる以前の清・日通商関係を考察する。次に、日清修好条規及び通商章程の内容を分析し、これまでの清朝と諸外国間の条約と比較して、清朝の条約史の中で異色な存在だった日清修好条規及び通商章程を、位置付ける。最後、日清修好条規の後、清・日間の通商関係に影響を与えるいくつの条約の規定を取り上げ、清朝の最期までの清・日通商関係を考察する。
結論では、以上取り上げた「互市」の事例を通じて清朝の通商制度・秩序をまとめ、「朝貢体制」論が誤った点を指摘した上、中国における「互市」制度の通時性、及び東アジアの固有の通商貿易制度を議論するための一つの視点になる可能性などについて、これからの課題として提起する。(2828字)