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台湾通信:台湾「外省人」

 2002年10月18日から19日にかけて、台北市の陽明山にある天籟温泉というところで、国民政府廃除不平等条約六十週念紀念シンポジウムが開催された。報告内容、あるいはそこでおこなわれた極めて有意義な「不平等条約の定義」などをめぐる議論については別稿で述べることとし、ここではそこでの会議で考えさせられた、「外省人」のことなどを述べてみたい。

 この会議が国民党の主催であったということにもよるし、またテーマが「中国外交史」という台湾史から極めて遠いところにあるものであったことにより、参加者には外省人(=45年あるいは49年以後に主に中国から国民政府とともに台湾に来た人々)とされる人々であった。食事のときも台湾語が用いられることは稀であった。
その食事の場で「当兵」(=兵役)のことが話題になった。そこでの会話は、筆者が比較的親しんでいる「当兵」の内容とは異なっていた。第一に行き先が殆ど台湾本島である。金門島の砲兵隊などという人は皆無である。第二に、だいたい教官であったり、事務的な仕事であったりと、「後勤」の任務にあたった人が多い。1979年、米中国交回復の際、台湾は人民解放軍の来襲を予期して大変緊張し、予備役の招集をおこなったが、そのときも彼らが前線に送られることは想定されず、「後勤」が中心であったようである。台北に行くと、国防部史政局の軍事博物館などにいくと、外省人の国軍の将軍たちの前線での輝かしい戦績、特に1950-60年代のそれ強調されている。しかし、外省人たちの兵役は前線ではなく、後勤であった。

 話をしていたのは、現在40歳前後の人々。すべての男子に兵役が義務化されている台湾にあって、「当兵」の記憶は身体化されている。その場において、外省人と本省人の明確な区別があり、それがいまの40前後まであったということ、これは看過してはならないことであると感じた。確かに、誰が外省人か本省人か、それは外省第三代になれば殆どわからなくなっているし、身分証に籍貫も記さなくなった今、日常生活で省籍を意識することは殆ど無いと言っていいかもしれない。しかし、この問題、風化するにはまだ時間がかかりそうである。恐らく、現在はそこまで露骨な兵役における「区別」はなされていないと思う。しかし、40台以上にみなその「区別」の記憶があるとすれば、省籍矛盾という問題はその決定性は弱まるにしても、今後も長く社会の中の執拗低音として流れ続けるであろう。

 2002年10月17日付『自由時報』に許文徳という産婦人科医の文章「誰是台湾的外省人」が掲載されている。これは、立法院(議会)において蔡同栄議員が「外交部には外省人が多すぎるので、きちんとした外交ができないのだ」と発言したことをうけている。この医師は、省籍と外交の巧拙を結びつけるのは不合理とまっとうな指摘をそのうえで「すでに五十年も共同生活をし、(本省人との)通婚も進んだ」のだから、誰かを「外省人」だなどと認定できるのかがそもそも問題だ、と述べる。また、民進党は一貫して「出生地」で本省と外省を区別するとしているのだから、外省第二世代以降は台湾人ではないのか?と話を進める。そして、この蔡議員の二人の娘はアメリカ籍を有し、アメリカで家庭のある身である。つまり蔡議員はアメリカ人の父であり、祖父なのだから、「台湾省」という観点から見れば、蔡議員のほうがよほど「外省」であるというのである(飛躍があるが)。

 確かに外交部には外省人が多い。中央政府の機関、特に外交部は「中華民国」の牙城であり、旧体制の権化であるとも言える。筆者も何度か外交部内部で仕事をしたことがあるが、台湾語は殆ど聞こえなかった(国防部の中ではときどき中国の「方言」を耳にすることがあったが、そこまでの経験は外交部ではなかった)。軍と外交という「中華民国」の国家としての根幹部は、外省人によって担われてきた部分が強い。

 この医師の外省人の定義はもはや困難で、台湾人の活動範囲が広がったいま、本省人といっても台湾に関わらない人も多い、そうした意味で本省・外省を議論する意味があるのかという指摘は一面で真理だし、こうしたかたちでの「台湾人論」は選挙の際にもよく耳にする。

 しかし、それでもなお省籍が市民の選挙行動の大きな要素となるのはなぜか。こうしたことに対するひとつのヒントが食事のときの兵役の会話にあったように感じた。

 「中華民国」は今年で90年。台湾の「中華民国」の居場所は、中央政府では国軍と外交部であったが、それも次第になくなり、台湾全体で金門・馬祖にしかなくなるにしても、進退かされた省籍に関する記憶がなくなっていくにはいましばらく時間が必要なのだろう。
(2002年10月19日/川島真)

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