国際政治学会での報告のため、淡路島を訪れたのだが、会場となっていた淡路夢舞台のホテルが満杯であったため、淡路島の明石方面の対岸(本州側)にある舞子というところのホテルに宿泊した。舞子というところは、海岸に松林などのある風光明媚なところだが、久しぶりに、その海岸の面していて、ちょうど明石大橋の下にある「孫中山記念館・移情閣」を訪れた。神戸の孫文記念館として親しまれているこの博物館は、八角三層の「舞子の六角堂」(外見的には六角に見えるため)を利用している。この建物は、かつて華商として有名であった呉錦堂(1855-1926)の別荘「松海荘」と呼ばれ、孫文も訪れたことがあったが、呉の死後に神戸華僑総会に移管され、さらに戦後、同会から神戸市に寄贈されたものである(現:県指定重文)。
展示は、孫文や呉錦堂に関する常設展示のほかにちょうど梅屋庄吉と孫文のものがあった。こじんまりとした博物館なのだが、展示物には現文書などもあり、たいへん質が高いものと判断できる。この中で関心をそそられたのは、山田良政(1868-1900)に関する展示であった。山田は、青森県出身で、大陸浪人として知られる山田純三郎の兄にあたる。東京水産実習所を卒業、のちに恵州起義に参加し、死亡。中国の革命運動に死んだ「友人」として孫文からも顕彰された人物である。ところで、この人物は1890年から上海で貿易活動に携わっていたが、彼がいたのは「北海道昆布会社上海支店」である。
実は、長い間疑問に思っていたことに、近代における北海道の海産物のことがある。19世紀の半ばまで、北海道の海産物、つまり俵物は日本の主要輸出品であった。松前藩はこれで潤ったし、長崎貿易でもこの北海道伝来の干した海産物が主力輸出品だった。また、琉球も北海道から日本経由で昆布などを輸入し、それを福州の琉球館まで運び込み、朝貢品としていた。1860年代に千歳丸が上海に行った際に持参した物の中にこうした海産物が数多く含まれていた。北海道の海産物は、中国人の胃袋に必要な食材を提供していた。
では、明治以降、その海産物をめぐる貿易の状況はどのようになったのか。北海道開拓使にしても、北海道庁にしても、北海道の殖産興業を考えた場合、牧畜業などだけではなくて、自前のこの海産物産業を放置するはずはないからである。恐らくは、台湾などを含めて広範な貿易がおこなわれたのではなかろうか。これは今後追求していきたい課題である。
山田良政は、恐らくその北海道の海産物を扱う貿易の現場にいた。北海道とアジアの関係は、これまで見られなかった日中関係の断面を切り開いてくれるかもしれないと感じる展示であった。
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