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水無き黄河と洛陽の水席(2002.12.02)

 鄭州と洛陽に行った。鄭州は河南省の省都、洛陽は言わずと知れた古都である。また、鄭州といえば徐州とともに交通の要衝として知られる。東西南北の鉄道網が交差する地点なのである。また、鄭州は黄河で有名でもある。黄河流域の都市には山東の済南を初めいくつもの有名な都市があるけれど、鄭州がひときわ有名なのはここでの治水如何で黄河の流れが変わってしまうということ。清末には堤防が決壊して黄河は山東半島の南に流れ、 日中戦争中には国民党軍が敢えて決壊させて日本軍の進軍を防いだともされる。

 鄭州には飛行機で降り立った。夜も10時近かったが、街中はまだ明るい。しかし、自転車の多いこと。街の雰囲気も、実に素朴というか、まるで10年前の北京のようである。服装も全体的に黒と灰色。ホテルについてから街中に出ると、名物「繪麺」屋があったので早速はいる。比較的こってりとしたスープにきしめんのような麺。付けあわせでとった白菜が異様に美味しい。そういえば、鄭州と青島にコンテナ輸送のラインができて、日本への輸出の目処もたちはじめたとか。農業立省、河南の面目躍如である。(ともかくいえる事は河南の野菜が美味しいこと!)

 しかし、街中を見てみると、単なる「田舎」というわけではないようだ。ホテルの前には上島珈琲がある。これは恐らく日系でありながら上海を中心に展開した喫茶店。一杯50元以上の珈琲を「星巴克」(スターバックス)よりも美味しく提供。食事メニューなども多く、若者に人気である。また、その横には金門麺包(パン屋)。これは香港台湾系。ここで「北海道パン」を購入。河南で「北海道牛奶麺包」に出会えるとは思わなかった。これは台湾における「北海道神話」のシンボルである。北海道のとある駅前の小さなパン屋さんの焼くパンとして「北海道ミルクパン」は、台湾を代表する親日ホテル「国賓大飯店」(アンバサダーホテル)に久々の行列をもたらしたパンだ。北海道では誰も知らないが、そこのパン屋さんは台北まで出張ってパンを焼いたという。そして、その北海道ミルクパン(ふわっとしたメロンパンのようなもの)は、次第に台湾のパン屋の店頭に並ぶようになり(別に技術的秘密があるわけでも、特許がるわけでもないから)、あっという間に、まさに「人口」に膾炙してしまった。それが香港経由で鄭州まで来ているのだ。この「南風」あるいは「東風」は銀行でも感じられた。広東発展銀行、埔東開発発展銀行などといった華中・華南系の開発銀行が多いのだ。ひょっとして、華南は労働者を南に送り出しているから、彼ら出稼ぎ労働者の賃金などを南が扱っているということか、それとも南からの投資が多く、それへのバックアップのためにあるのか。驚きは尽きない。

 わかっていたとはいえ、やはり驚いたのは、黄河である。「断流」とはこのことか!!水が無いのだ。清末にできた京漢鉄路の鉄橋などに感動している暇もなく、長々と続く鉄橋と水無き砂地の連続に嘆息するしかない。確かに水が多少はある。だが、せいぜい豊平川(こんなことを言ってわかるのは北海道の人間だけ)、首都圏なら鶴見川以下の水流が数本あるだけである。運転手が言うには、ここ十年は冬に流れが止まり、夏になれば流れると言う。これは、雨季になると川になる。要するに砂漠の川ではないか。長江の水を黄河に持ってくるなどというプランを考えたくなる気持ちはわからないでもない。共産党王朝は、黄河を決壊させたことが無いのが誇りだった。でも、水無ければ決壊のしようもない。それに、ここ十年は李鵬が中国の水利を担当してきた。三峡ダムも彼の担当。李鵬は、「三峡ダムを破壊されたら、上海は壊滅」という安全保障上の理由で責任を追及されたという本当とは思えない噂があるが、今回の人事で水利担当は誰にかわるのか。水は西部で使われてしまう。しかし、西部は大開発すると中央は言っている。金は沿岸部から内陸にフィードバックできても、水はできない。もはや海水を淡水に変えるしかないのか。

 最後の日に、洛陽に行った。まずは竜門。北魏時代の石窟で、日本が援助して復元するとかしないとかいう話のあるところである。この竜門の前、洛河は水を滔々とたたえている。あるところにはあるのだ。古代史はあまりよくわからないので、ちょうど来ていた小学生の集団にくっついてガイドの話に耳を傾ける。「殆どの仏像は首が壊れていたり、首がなかったりしますが、首の部分は、日本・アメリカ・ヨーロッパの博物館などで見ることができます!」。確かにあるにはあるが、文革はどうしたという感じである。しかし、こういった社会教育が実に「中国公民」の形成に貢献するのであろう。

 竜門をあとにして洛陽市内に向かった。時間があまりないので、昼食をとることにした。筆者は、以前北京の洛陽市辦事所(洛陽市の北京駐在事務所)に附設されていたレストランで食べた「水席」が忘れられなかった。これは要するにあらゆる料理がスープの中にあるのである。この料理の由来はいろいろな蘊蓄があるから特に触れない。北京日本学研究センターの厳安生先生に聞いて欲しい。行った店は、「真不同」という老舗(当然いまは国営)。「本当に他の店とは違う!」という店名。自慢するだけのことはある。特に「梅菜扣肉」は、いままで食べた中で一番美味しかった。溶けるような触感とはことのこと。シュウマイも見事。でも、少し頼み過ぎた。水分が腹にたまりすぎるのである。

 民国期の著名な「軍閥」である呉佩孚は、この河南を拠点のひとつにし、洛陽に陣取った。この時の黄河はときに大氾濫をおこしたが、河南はしばしば大旱魃に見舞われた。特に1920年前後の大旱魃は、呉佩孚の地盤に大打撃を与えただけでなく、北京政府の財政基盤もこれで傾いていく。黄河の流れを如何に維持するか、そして流域における公平、少なくとも合意形成の末の利益分配がおこなわれないと、かたや水席、かたや渇水ということになりかねない。ウィットフォーゲルの議論を今更持ち出すつもりはないのだが、治水政策の失敗は、正当性それじたいに影響を与える可能性もある。ポスト李鵬を見守っていきたい。

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